[∞] 華星空、そして無邪気な心は放たれる
浴衣を着る者、制服を着る者、私服の者。
皆それぞれがそれぞれの思いを胸に、この先に待つ炸裂の時を待っているのだろう。
グラウンドの真ん中で花火の用意をしている様子を、聯紗は芝生に座って何となく見つめていた。
まだ場所取りには早すぎる時間。けれどやる事もなかったので、こうして見ている。
「ああ。此処に居たのか」
横から掛かった声に聯紗は顔を動かすと、そこには見慣れた顔があった。
「あら、藍是君じゃない。どうしたの? こんな時間に」
「それ、あんたが言える台詞か?」
「……言えないわね」
くすりと。聯紗は肩を竦めて笑って見せた。
扇は手に持っていた缶コーヒーを、ぽんと聯紗に投げた。
「殊子から。遅れるからお詫びに持ってけ、だと」
「殊子ちゃんてば……そんな気ィ使わなくても良いのに。でもありがとう」
「俺に礼言っても何も良い事ないぜー?」
自分の分のサイダーを開けて、扇はひょいと座り込んだ。
「……あのね」
「ん?」
「母親の事……なんだけど。私、今度逢おうと思う。逢いたい」
サイダーの刺激が急に喉に詰まって、扇は噎せそうになった。それを見て、聯紗が不愉快そうに眉をひそめた。
「何よそのリアクション。私が素直すぎておかしいとかって言いたいんでしょ」
「い、いや……どうしてそんな、いきなり……」
「昨日の事で。結局私がちゃんと向き合わなかったから、『影』に支配されたのね」
開けるべき扉も、押さえていれば開けられる筈もないだろうに。母は開けようとしたのに、聯紗はそれを拒み押さえていたのだ。
「今の母親がどんなだかも知らずに。けど、ちゃんと思い出したもの。昔のお母さん、あんな優しかったもの。だから今もあのままで居てくれてるんじゃないかしら。それが上辺でも」
遠くを見るような瞳。力強く輝く瞳。
彼女は扉を押さえる手を緩め始めているのだろう。
そして何時か、彼女から扉を開けられる日が、来るのだろうか。
空が藍色に染まり始めた頃になり、やっと殊子がやって来た。
「ギリギリだったわね」
「へへー。わたし運良いから」
「静かにしろ。始まるぞ」
扇が二人を制すと、それを見計らったかのように、爆発音が響いた。
三人は一斉に言葉をなくし、空を見上げた。何分も、只ひたすらに。
瞳を、言葉を、心を、全てをそれに奪われて。
全てが静寂に戻り、周りがざわついてきた頃、聯紗がふと呟いた。
「……ぱっと咲いて、ぱっと散る……か」
本当を言うと、少し憧れていたのだ。そんな一瞬の煌めきに。
「先輩。――お願い、頼まれてくれる?」
殊子がふわりと笑いながら、言った。
「わたし達の正体、誰にも言わないでね? 内緒なの」
「どうして?」
「それが俺達なんだよ。人知れず闘う存在」
扇が苦笑しながら続けた。
「普通は全部忘れるもんなんだけど、あんたは特別だ。だから覚えて貰おうとしたんだ」
特別。その意味を聯紗は知らないまま、頷いた。
「ええ。解ったわ」
「ありがとう」
殊子はもう一度笑った。
「最期に良い思い出作れて……地球に来ることが出来て、良かった」
聯紗がその言葉に反応して、殊子を見た。――が、そこには誰も居なかった。その傍に居た、扇も。
「…………」
聯紗は暫し呆然としていたが、やがて再び空を見上げた。
それから資料室へと向かった。
背後の殆ど沈み掛けている夕日の、最期の強い光。それに包まれていた茶髪の男子生徒。
そっと扉を後ろ手で閉めて、二年生のものを取り出して広げた。
前と同じ席に座ると、並んで座るあの二人が、弁当を食べながら笑っているのではないかと思ってしまう。グリンピースを取り除く兄と、それを鋭く見付けて指差す妹。目の前の椅子もあの日のように蹴り飛ばされて倒れているのではないか、とも思ってしまう。
ページを暫く捲り、やがてその手は止まった。
「やっぱり……」
聯紗の感は良く当たった。それは女の感というものなのか、それは解らなかったが。
あるべき名前、写真がそこにはなかった。
同じように一年生も調べたが、やっぱり何処にもなくて。
何もかもがなくなったような、足下の床が抜けたような、聯紗はそんな浮遊感をほんの一瞬感じた。けれど本をぽん、と音を立てて閉じると口元を緩やかにカーブさせた。
あの二人は……又、仕事をする為に何処かへ行ったのだろう。
誰にも知られず、それ迄の記憶を全て消して。
寂しいけれど。そう、あの少女は言っていた。
知ってるのは自分しか居ないのだろう。これからも。
自分だけに、あの二人は記憶を与えた。
ポケットから携帯電話を取り出すと、数回ボタンを押した。
「……ああ、州透? ちょっと訊きたいんだけど、藍是扇と未来島殊子。この名前に思い当たるふしはあるかしら。……そう。なら、良いの。ううん、別に深い意味はないのよ。じゃあ、それだけだから――あ、そうそう」
そこで一旦切って、すう、と息を吸った。
「今度お母さんに逢いに行こうか。……あ、何よその沈黙は。私だってね、お父さんを幸せにしたいのよ? もう、……ええ。それじゃあね」
ぱくんと携帯電話を閉じ、聯紗は窓の外を見た。そろそろ、再び花火が始まる。
「……そうね」
聯紗はそっと呟いた。
「私もしっかりと歩かなきゃいけないのよね」
一番星が輝く空。それを見上げ、聯紗はもう一度不敵に笑って見せた。
扇の力は夢の管理人としても特別な力だった。魔法の力、空想の力。その力は夢を飛び越え、現実でも使えた。けれど扇は滅多に使う事をしなかった。特に子の世界に関してはそうだ。此処に来た時中学三年生として過ごしていた殊子を高校へ入学させる時には使ったが、それ以外では使用することはなかった。便利なのにな、と殊子は思うのだが、毎日使ってたらもなくなった時に困るだろ、と扇は何時か笑いながらそう言っていた。
「その力使うなんて、珍しいね」
聯紗の前から姿を消したのも、力を使ったからだ。
「お前が頼んだんだろ」
「そうだけどね」
移動先は、あのちっぽけな公園だった。何もない公園。柵の方へ行けば、街並みが見渡せる。ビルや街灯や、そんな群れが。
「この風景も、これで最後かあ」
ぐっと伸びをしながら、殊子が言った。
――強がり。
扇は心の中で呟いた。
そうやって笑って、軽い口調で。本当は違う癖して強がる。
「扇ちゃん、知ってる?」
おさげを揺らして殊子が言った。
「今日は七月七日。地球で、七夕って言うんだって」
「ああ、知ってる」
「ほら、これ見て!」
殊子は傍にあった樹を指差した。
「細長い紙に願い事書くんでしょ? こうやって吊すんだよね」
「本当は笹の葉に、だけどな」
こんな都会に笹の葉はないのか、普通の樹に幾つか短冊が吊してあった。子供独特の、幼い整っていない字で、様々な願いが書いてあった。
「それで吊したら、その願い事が叶うんでしょ?」
「……そう決まってる訳でもないけどな」
「えーと、……『パンやさんになれますように』。うん、パン屋さんかあ、良いねえ。それと……『うちゅう人になれますように』……えっと……なれるのかなあ」
幾つかの短冊を見てから、殊子はくるりと扇のほうを向く。
「扇ちゃんは、もし一つだけ願い叶うなら、何願うの?」
問われて扇は戸惑った。だってそんな事考えた事もなかった。必ず願った事が、たった一つ叶うなら。何を願うのか。そんなの。考えた事もなかった。……諦めていた。そんな都合の良い話、ある訳がないと。
「ああ、……何だろうな。お前は何なんだ? 訊いたからには、何かあるんだろ」
「うん。まあ、ね。わたしの願いは、皆がわたしを嫌いになりませんように、かな」
照れたように殊子は笑った。
「あ、たった一人でもわたしを嫌いにならないで居てくれれば……って方が良いかな」
「それはもうクリアされてんじゃん」
「あれ? そうだっけ」
「俺と箕知と、親父とか。色々」
「……うん。う、ん――なら、良いんだけど」
何処か虚ろに、呟くように、殊子は返した。曖昧な笑みと共に。それは少し困ったような印象さえあって、扇は何となくいけない事を言ったような気がした。
「あ、後ね! 天の川って言う、帯みたいのが夜空に見えるんだって。誰かと誰かが今日だけ逢えるんだったよね」
「織姫と彦星」
扇が付け足す。
「そう、それ」
でも、と殊子は笑った。
「今日は、見えないみたいね」
「ああ、そうだな」
「……天の川がなかったら、二人は逢えないのかな」
「どうだろうな」
「そんなの――辛い、よねえ……」
扇は目を見開いた。今此処で、こうして見ているものが嘘のように思えて。
「――お前…………」
「え?」
彼女が不思議そうに言った。
「泣いて――」
言葉は途中で途切れた。
彼女は泣いていた。頬を濡らして、笑ったままで。まるで泣いているのに気付いていないかのように。
決して泣く事のなかった、だから扇の望んでいた彼女の涙。
「……あれ? 濡れてる?」
驚いたように、殊子が頬に手をやった。それが引き金のように、真っ黒の瞳の奥の何処迄も深い池から、それが一気に溢れだした。
「え? ……どうして? どうして、涙出てるの?」
困ったように目元を拭って、けれど涙は止まらずに頬を伝った。殊子は困ったように笑ってから、その顔をくしゃりと歪ませた。
「わたし……少しは、役に立ててたかな? この世界の人達の役に、立ててたかなあ?」
今も胸は締め付けられるけれど、しかし扇は悪い気はしなかった。
何時か彼女も理解するだろう。
彼女の存在を強く求める者、その数がどんなに多いのかを。
「ああ。立ててた。あんな箕知を見て、それでも立ててないって思ってるのかよお前は」
「そうだね――そう、だね……」
ぽろぽろと涙をこぼして笑う妹に、扇は優しく笑いかけた。
「だから忘れるなよ。夢の管理人は……人々の夢を安らかに保つ、大事な存在なんだ」
花火が鳴る。華が咲く。ぱっと咲いてぱっと散る。そんな一時の煌めきが。
空へ還る二人を見送っていた。
『なあ殊子。あの小さい頃の箕知、あの時何て言ってたんだろうな』
『え? 扇ちゃん、解らなかったの?』
『何だよ、お前知ってたのか?』
『当然じゃない。駄目だなあもう扇ちゃんはー』
『…………』
『まあまあ、教えてあげるから』
『……で、何て言ったんだ?』
『ええと、それは――……』
『私達を、忘れないでね』
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