「お、良い匂いがするな。お茶会は終わった後だったか」


 フレンが部屋を出てから凡そ三十秒。一体どうやって辿り着いたのか、窓からひょっこりと見たことのある顔が現れた。しかも、当然のような顔と、世間話をするような口調で。


「……な、何してるんです?」
「何って。あんたの部屋どこかなって探してた。割とあっさり見付かって良かったよ」
「ではなくて! ……ああ、もう、早く入ってください!」


 ぐいぐいと罪人を引っ張りあげて、慌てて窓とカーテンを閉める。
 変わらない、黒く長い髪に、同じ色の鋭い瞳。牢に居た時に着ていた服よりは軽装だが、それでもやっぱり黒い服。
 彼が城から居なくなってから、まだそんなに経過していない。いつか会える日が来るかも、と思っていたが、まさかこんなに早く、しかも唐突に。見付からないように部屋に招いたは良いが、エステリーゼは会話の切り口が見付からずに突っ立ったままだ。


「……あれから、追っ手は一度も来ないよ。いつも通りの、下町の生活だ」
「え? あ、……そう、ですか。良かったです」
「ほれ、土産。余りもんで作ったクッキー」


 こんなに自分はどう接したら良いか悩んでいるというのに、この男はあの時と変わらず、当たり前のようにクッキーを包んだ袋をよこしてきた。
 礼を言って受け取るが、その行き場も困る。
 だって、ここですぐ食べるのもなんかおかしいし。
 ちろりと男を見上げてみると、どうしてそんなに慌ててんだ、と言いたげな顔をしていたので、何だか色々考えていた自分がばからしく思えてきた。


「あ……そうです! そうです、貴方に渡すものがあるんでした」


 クロゼットの中の布を思い出し、エステリーゼはクッキーの包みをテーブルに置くと、口覆いの布を男に差し出した。


「忘れ物です。……貴方には、もう必要ないものかも知れませんが」
「そうか。そうだな。……ま、でも貰っとく。まさかまだ持ってると思わなかった」


 そうやって笑う男の顔は何だかとても自信ありげで、少し悔しい。


「……貴方が庇った子は、お元気です?」
「ああ。下町に帰ったら、良かった良かったってびいびい泣いて喜びやがった。その恩返しだか何だか知らねえけど、最近はいっつもオレに引っ付いてくる」
「本当に感謝しているんですよ。貴方が助けてくれたから、今があるのですから」
「オレは罪人だ。しかも罰を受けずに脱走して、追っ手も来ないでのうのうと暮らしてる。後ろめたいのもありつつ、もう一度牢屋行きも嫌だからこのまま。学ぶことなんて、」
「誰かを助けたいと願う気持ちですよ」


 突如遮られ、男は目を丸くした。黒い瞳に映るのは、桃色の髪を揺らして微笑む姫君。


「それはとても誇らしいことです。貴方は……わたしのことも、助けてくれました」
「そうか?」
「そうです」
「何で?」
「良いんですよ、知らなくて」


 林檎の皮もちゃんと剥けるようになった。
 料理の本を読むようになったし、裁縫を覚えようかとも考えている。
 全て、外の世界のことを教えてくれた、この優しい罪人に出会ったからだ。
 だからエステリーゼは、この罪人に感謝していた。彼の行いを許すことは、きっと一生ないけれど、彼の行いにより自分の世界は確かに広がった。鮮やかな赤いワインが喉を通って身体を熱くするように、世界は火照り、色付いたのだ。


「……そうだ。オレはあんた向けの商売をしようと思うんだが」
「はい?」
「下町巡り三時間コース。おやつと護衛つき。お帰りの際は、部屋まで責任を持って送り届けよう。価格は……終わってから、見合うだけの金を適当に払ってくれ」


 あんたは外の世界が見たいんだったな。
 悪い話じゃないと思うぞ?


「……次は誘拐ですか。見付かったら、また罪人に戻ってしまいますよ?」
「いいや、これは商売だ。あんたは観光客。勝手に連れ出す訳じゃない。……まあ、ばれないように、だけど?」


 片目を瞑って笑ってみせた男の言葉に、エステリーゼは笑った。
 そうだ、わたしはこの目で世界を見るのだ。
 指輪が落ちた井戸を。
 彼が助けた子供を。
 きっと外の世界は、わたしの想像とは違うのだろう。
 正しいものと繋ぎ合わせて、鮮やかに色付けたい。
 エステリーゼはドレスの裾をつまむと、芝居がかった動作でゆっくりと礼をした。


「よろしくお願いします、案内人さん」


 任せとけ、と案内人は笑った。
 ……そういえばこの人の名前を知らない、と、エステリーゼは頭の片隅で思ったが、別に今すぐ聞かなければならないことでもないから言わなかった。
 だってこの人はまだ自分の名前を言っていない。
 また、出会った頃のように、自分の名前など忘れているのだろう。
 しかしその存在は揺らがない。
 それだけで、良かった。


 色あせた、けれど輝かしい世界は、今日も変わらずに動いている。