あれからエステリーゼは、牢へ足を運ぶことをしなくなった。感傷に浸るのは簡単だが、そんなことをしてもどうしようもないのは分かっていた。だからエステリーゼは、今日も自室で執筆作業に勤しんでいた。
 すっかり仲良くなってしまった気の良い看守とは、罪人が逃走して以来会う機会が減ってしまった。罪人を逃がしたも同然の立場であったが、看守は全く罪を問われることなく今も牢の前に立つ。牢に行かないエステリーゼは、時折看守と廊下ですれ違い、罪人の牢での暮らしぶりを話しては笑いあった。姫君と看守の談笑は周りの目を引いたが、二人は全く気にすることはなかった。


「……一体どんな魔法を使ったんです? フレン」


 そして本日の客人は、若い騎士。ほのかにバニラの香りがする甘い紅茶を前にして、フレンと呼ばれた騎士は少し困ったように笑った。


「何も。ただ、様々な部分を少しずつ弄って、都合の良いよう物事を進めただけです」
「全く……わたし、聞いてませんでしたよ。フレンとあの人が幼馴染なんて」
「も、申し訳ありません。ですが……話す理由もなかったもので。その。……そうですよね。これだけ色々したのですから、お話すれば良かったですね」


 しどろもどろに言うフレンが何だか面白くて、エステリーゼはくすりと笑うと紅茶のカップを持ち上げた。何て生真面目なんだろう。この人とあの人がずっと一緒に過ごしてきたなんて。エステリーゼの笑みに苦笑で返したフレンは、しかしすぐにその笑みを消し、カップをソーサーへと戻した。


「彼の行いは、結果的には一人の命を救いました。ですが、同時に一人の命を失いました。その行為は、確かな罪です。命を天秤にかけることはしたくありません。だから私は彼を逃がすことはしない。……その、筈だったのですが」
「筈だったのですが……?」
「……実は、彼を逃がすことを決めたのは私ではありません。そういう指示が出ただけです」


 エステリーゼはぽっかりと口を開けた。てっきりフレンが、昔からの付き合いで逃がしてやろうとしたのだと思ったのに。確かに彼が逃げられるように仕組んだのはフレンのようだが、その計画は彼が立てたものではないらしい。


「ですが、彼が逃げられるよう実行したのは私です。……それなりの罰を受けなければ」
「そう、ですね……わたしはそういった権限を持ってはいないのですが……」


 んー、とエステリーゼは顎に手をやって唸った。それからぱちりと瞬きして、頷いた。


「分かりました。たまには紅茶を飲みに来てくださいね。外の世界や下町のこと、沢山知りたいことがあるんです」
「……彼に、様々なことを聞いたのですね」
「はい。でも、まだまだです。わたしはもっと勉強しなくては。だからフレンにはそのお手伝いをして貰います。それが罰、ということにしませんか?」


 わたしは全く姫君らしくないけど、それでもこの国の姫君と言われる立場にある。
 それ相応の自分で居なければ。
 ――いつかあの人にまた会う事があれば、その時はきっと胸を張って笑える自分で居たい。
 鮮やかに笑うエステリーゼに、フレンはふと思う。


(……きっと、エステリーゼ様は色を持ちすぎていたんだ)


 彼は幼い頃から暗色ばかり好んでいた。だからといって暗い場所が好きだった訳ではないし、彩度ある色が苦手な訳でもなかったけれど。でも。


『オレは誰かの上に立ったり、目立ったり、そういうの性に合わねえんだ』


 そんなことを、ずっと昔に言っていたような記憶がある。だから彼にとって、エステリーゼという存在は残酷なほど光に満ちていたのだろう。あの暗い牢の中で、それでも鮮やかに微笑む姫君は、その罪人にとって眩しすぎた。
 フレンはふと、エステリーゼの部屋のクロゼットに目をやる。あの中に、罪人が残していった口覆いの布がある。綺麗に洗っていつでも返せるようにしてあるのだと、エステリーゼが言っていた。
 気付かれないように、未練を残させないように。そうやって彼女の前から消えるつもりだった癖に、口覆いの布を挨拶代わりに渡して去っていくなんて。


「……中途半端」
「え?」
「あ、いえ、何でもありません」


 思わずフレンはぼそりと呟いたが、エステリーゼに首を傾げられて慌ててごまかした。
 構って欲しい子供じゃないんだから。
 何だっていつもそうなのかなあ、君は。
 エステリーゼ様を何だと思ってるんだろう。
 この人は、そんなに弱い人じゃないのに。


「……そろそろ私も行かなくては。外の話は、また今度にしましょう」
「はい。ありがとうございます、フレン」


 けれど、彼に感謝しなければならないことが一つ。
 エステリーゼ様は、君と出会ったことで、大きくなられたよ。
 外の世界に興味を持ち、善と悪に疑問を抱き、ずっと輝かしくなった。
 部屋を出る前に一度礼をして、扉を閉める。


「……中途半端」


 もう一度呟いた。
 光に憧れて、触れようとして、拒絶して、背を向けて、なのに希望を残した。
 守るもののためなら自分の命も顧みない彼の、未練がましいひっそりとした主張。


(今度下町に戻ったら、何て言ってやろうかなあ)


 歩きながらフレンは考える。どうせ何を言ってもはぐらかされてしまうだろうけれど、頑固者は頑固者なりにしつこく言ってやろうと思う。罪人なのだ、それくらいしたって当然。
 あの、不器用すぎる故意犯は、言い過ぎるくらい言ったって考えを曲げない。


 その後すぐに下町に行ったフレンは、その罪人と会うことは出来なかった。
 何だかむかついてきたので、やっぱり次にあったら一発殴ろう、と決めた。
 けれど城に戻ってみたら、今度はエステリーゼが行方不明だと大騒ぎだったので、やっぱり三発にしようと決め直した。
 数日経って罪人に会ってから、本当に殴った回数は四発だった。