気付けば、幼い頃から暗色ばかり好んでいた。意識したことはなかったが、明るい色の服を着た記憶が余りない。長い黒髪に、黒い瞳、黒い服。闇に溶けるにはもってこいだが、何もそんな理由で黒ばかり好んだ訳ではない。ただ、手を伸ばしたところにそれがあっただけだ。
 彼にとって、世界はきっと鮮やかすぎた。
 そしていつの日からか、彼は鮮やかな世界に背を向けた。




「おーう、おはようさん」


 今ではすっかり仲良くなってしまった看守が、警棒でかんかんと鉄格子を叩いていた。甲高い音に目を覚ますと、鉄格子の向こう側で看守はにこやかに笑う。


「随分とよく眠ってたようだが、良い夢でも見てたか?」
「……どうだかな。今日は夢を見なかった。長い牢獄生活の最後の夜だったってのに」
「夢を見ないほど深く眠ってたってことは、そんだけここの生活が心地良くなっちまったってことか?」
「冗談。ま、生活には困らねえけど」


 弾みをつけてベッドから起き上がる。ぞろりと長い黒い服。頬をかすめる黒髪。
 昨夜はエステリーゼに嘘を付いた。呼ばれている、なんてのは嘘だ。最後の夜だと思わせないための嘘。別れなんて告げない。
 最後の夜はこれからどうしようか一人で考えることにしよう――そう決めて嘘を付いたのだが、これからどうなるのか決まっていないのに先のことなど考えることは出来なかったことに気付く。結局彼はぼんやりと暗闇の中で天井を見上げ、そのうちにいつもと同じように眠ってしまったのだった。


「さて、今日お前は処罰される訳だが、その前にちょいと観光ツアーはどうだ」
「……はあ?」


 看守はにやりと口の端を吊り上げ、鍵束をじゃらじゃら揺らした。


「やー、お上のするこたあ分からん。とにかくお前を少しの間自由に城の中観光させろ、とさ」
「……まさか、ギロチンの前で解散でーす、ってオチはないよな」
「やるならお前が寝てる間に運んでくよ。処罰の前の散歩と思ってくれれば良い」


 言いながらも看守は鍵束から目当ての鍵を取り出し、錠を外した。軋んだ音を立てて扉が開かれるが、全く話の流れについていけない。処罰の前に観光ツアー。しかもお上?
 何かの罠なんじゃねえの、と彼は不審そうに看守を見やるが、看守はにやにや笑って、早く出てこいよー、とか言った。


「散歩は二時間。流石に城の外は無理だが、城の中なら行きたい所に行って良い。お前の人柄はすっかり理解した。本当は俺も監視役として着いていくとこだが、着いてっても何もないから行かねえ」
「……え? 何、オレ一人? 良いの?」
「逃げたいからってそこらへん歩いてる騎士の剣奪って、ぶん回しながら逃走……なんてしないだろ? これでも信用してるんだ」


 罪人相手に、信用。つくづくお人好し過ぎる看守だ。そして、その裏にある意味に気付けないほど、気付いても気付かない振りが出来るほど、罪人はお人好しではなかった。それを分かっているだろうに、看守はわざとらしく続けた。


「そうだ、とっておきの散歩の場所を教えてやろうか。テラスは良いぞ。城から飛び出せそうなくらい(・・・・・・・・・・・・・)、見晴らしが良い。剣を奪う必要もないし(・・・・・・・・・・)なあ」


 何て奴だ。
 どう言い返そうか迷ったが、反論してもどうしようもないのでやめた。その代わり、何だかんだでここに居る間世話になったな、と思い、素直に頭を下げた。


「ありがとな、色々」
「何言ってんだ。俺はお前が完全に罪人だと思ったことは一度もないぞ」


 二時間経ったら戻って来いよ、と看守に手を振られ、彼に背を向け歩き出した。もう二度と会うことはないだろう看守への別れの言葉は、きっと要らない。
 拘束具は何もない。周囲の目はきつかったりするけれど、誰も歩みを止めさせる者は居ない。『騎士を殺した元騎士』として既に有名な男である。本当なら殴りかかりたいであろう騎士も居るだろうに、誰一人不満を言う者が居ないのは、やはり看守の言う通りお上が関係しているからだろう。
 のんびりとした足取りでテラスへ向かう。ぶわりと風が真正面から吹きつけ、黒髪を思うままに躍らせた。拘束具も、見張りもない。見回りの騎士の気配すらない。遮るもののない世界。――否。この空間には、もう一つ、自分以外にも存在していた。


「……何だ。あんたが最後の砦か」


 テラスにはたった一人、先客が居た。短めの桃色の髪を頭の後ろで一纏めにした、簡素なドレスに身を包んだ少女。きゅっと唇を固く引き結び、僅かに顎を引く。凛とした色の双眸。細い後れ毛が吹く風に靡く。鉄格子のない明るい場所でエステリーゼを見たのはこれが初めてだったが、だからといって接し方が変わる訳でもない。男はゆっくりと両手を肩の位置に上げて、笑った。


「抵抗しないけど、どうぞ?」
「……馬鹿なことを言わないでください。わたし、そんなことしにここまで来たんじゃありません」
「じゃ、何だ」
「さあ。お別れを言いに……来た訳でもないですし。何となく、行かなきゃな、って思っただけかも知れません」


 何で。だって、昨日が最後なのだと悟られないようにしたつもりだったのに。どこでばれてしまったのか、心の中で昨日の事を思い出す。しかしそれが表情に出ていたのだろうか、エステリーゼは苦笑して続けた。


「何となく、ですってば。確信はありませんでした。でも当たっちゃいました。……それだけですよ」


 彼が処罰される日は近い――前から感付いていたことではあった。そして昨夜部屋に戻った後、彼の様子がどこかいつもと違うような気がした。が、誰かに問うことも出来ず、少し風に当たって考えてみようと思っていたら、これだ。テラスから周囲を見渡すと、考えられないほど警備が手薄。きっと誰かが、彼が逃げられるよう仕組んだに違いない。それが誰かなんて、考えるまでもないこと。


「恐らく、この状態も長くは続きません。早く下町へ。貴方の行方を追う者も、出ることはないでしょう」
「……罪人が逃走した、捕まえろー……って、ならないのか」
「そこまでしっかり抑えられなければ、貴方を逃がしても仕方がないでしょう?」


 まあ、そりゃそうだ。男は数秒だけ逡巡してから、エステリーゼに向き直った。


「じゃ、……またな」
「はい。貴方がまだ飲んでない紅茶は、まだ沢山ありますから」


 その時の罪人の笑みは、一生エステリーゼの記憶に刻まれる、鮮やか過ぎる笑顔だった。
 男は口元を覆う布を解き、それをエステリーゼの肩に乗せ、そのまま脇を通り過ぎた。
 エステリーゼは動かない。
 背後で男が駆け出し、地を蹴る音。
 緩く吹く風に人の気配はない。
 髪も瞳も服も真っ黒の癖に、宝石みたいに輝く漆黒にも似た黒。


 ――あんたはオレを逃がしちゃいけない。その心があれば、あんたは大丈夫だ。


 嘘つき。
 自分から言っておいて、飛び立ってしまった。
 それで良い。
 全ては、なかったこと。
 お茶会は、おひらき。


 足元に落ちた布を屈んで拾うと、エステリーゼは身体を起こしながら一歩を踏み出す。
 振り向くことはない。
 次に吹く風に混じるのは、忍び寄る雨の気配だけで良いのだから。