例えば今夜のようになぜだか目が冴えて眠れない時、もしくは今にも眠りに落ちそうなまどろみの中、目の前を一杯の花弁が踊るような予感が頭の奥を駆け巡る。予告なく訪れる嬉しい瞬間を忘れないように、エステリーゼはいつもベッドの傍にノートとペンを忘れない。
 部屋の中は暗いけれど、今日も月明かりは頼もしい。早く、と自分の気持ちに背中を押され、ペンを走らせる。慌てているために文字はいつもより汚いし、誤字も脱字もかなりのもの。けれどエステリーゼはそんなことを気にせず、どんどんノートを黒い歓喜で埋め尽くす。


「…………これです」


 数分後、ようやくエステリーゼはペンを止めた。気付けば三ページにも及ぶメモ。こうなってはメモと言えないような量だが、彼女にとっては全ての断片にしかならない。
 いつか、素敵な物語を書こう。
 誰かに見せる訳ではないけど、きっと誰かに読んで欲しくなるような、そんな素敵な物語を書ききろう。
 幼い頃からずっと夢だったことを、エステリーゼは最近になってようやく掴めてきていた。
 外の世界を知らない王女様が、ある日やって来た異国の王子様と一緒に城を出る。広い広い世界を踏みしめ――


「あれ……」


 はた、とエステリーゼはそこで疑問を感じる。
 ところで、城を出て旅をすると言うことは、自分のことは自分でしなければならないと言うこと。身支度、料理、掃除……料理?
 この物語はある意味自分の願望物語だ。自由に外に出たい、というのではなく、外の世界に触れたいという願望。王女なのに、自分は恐らく世界の一握りも理解していない。そう思ったら、もっと世界を見て勉強しなくては、と考えるばかりだった。
 しかしエステリーゼは、王女である故、世間では当たり前のことが幾つか出来ない。軽い掃除は出来るが雑巾がけはドレスが汚れるからと止められるし、調理場にだって立ったことがない。世界に触れたいのは良いのだが、触れる前に自滅しそうだ。


(ということは……この王女様は、掃除や料理が出来ないといけませんよね……)


 困った。どういう描写をすれば良いだろう。いや、その前に料理とは一体どのようにするものだろう。知識はあるのだが、実践したことはないから、巧く言葉に出来ない。本の上の知識をつらつら並べたって、ちっともわくわくする物語にならないし。
 この問題を解決する方法は一つ。エステリーゼは唇を引き結ぶと、ベッドから降りてクロゼットへと駆け寄った。






「……で、そんな準備万端でいらっしゃった訳かい」


 十分後。鉄格子を隔てた向こう側で、長い黒髪の罪人はうんざりしたようにため息をついた。エステリーゼはそんな彼の言い分も雰囲気も全て無視し、決意を秘めた瞳を凛々しく光らせた。


「はい。やはりお話というのは、その場を想像出来るほどリアルな描写が必要だと思うんです。でもわたし、お料理が出来なくて……でも、貴方は出来るんでしょう?」
「ま、下町で長年暮らしてるからな。生きていくための術は一通り」
「それは心強いです! わたし、お茶を淹れることは出来るんですけど、お茶菓子は作れないし、果物も剥けないし……。だからわたし、考えました。お料理はまず基本から。包丁を上手に使えるようにすることから始めます!」


 剣と包丁は使い勝手が全く違う。同じ刃物でも別物。エステリーゼは鞄の中からまな板を取り出し、いつもの折り畳み式のテーブルに置いた。その上に林檎が一つ、ごろんと転がる。更にタオルに包まれた包丁が鎮座。お願いします、という眼差しで座ったエステリーゼは、今から林檎を剥くという穏やかな作業をする雰囲気とは離れすぎている。お前はこれからその林檎をメッタ刺しにする気かよ、という言葉が辛うじて喉で止まった。一歩間違えば、獲物を仕留める前の精神統一である。


「……じゃ、やり方は教えてやるけど。鉄格子越しだし、上手く説明は出来ないからな。あと、消毒液とか絆創膏とかあるか? 指切ったら、すぐ消毒しないと危ないぞ」
「大丈夫です。では……いざ!」


 だからそれがメッタ刺しの勢いなんだけど。思ったが、もう言う気も失せた。






 そして、十五分後。まな板やテーブル、果ては床にまで、毟り取ったのかと思うほどちぎれた林檎の皮が散乱していた。そして、赤と白の花弁の中に、ちょこんと小さな林檎が一つ。


「……で……出来ました!」
「出来たっつーか……出来たって……や……まあ、頑張った頑張った、うん」
「だ、だって、こんなことしたことなかったんですもの。細く長く、くるくるっ、て簡単に剥けるものだと思っていたら……こんなに難しいなんて」


 もっと簡単にいくと思っていたのに、やはり包丁というのは扱いが難しい。でこぼこな林檎を見つめため息をつくエステリーゼに、少し冷めた紅茶を飲みながら罪人はおかしそうに笑って言った。


「食わないのか?」
「……何だか、食べやすい大きさに切る自信がなくなりました」
「切る必要ないだろ。そんだけちっこくなったなら、そのまま齧るのでも食べやすいぞ」


 そのまま。エステリーゼは少し迷った。それなら確かに簡単に食べられるが、ちょっとはしたない。でも、これ以上包丁を持つ勇気はない。そうっと林檎を手に持って、小さく一口、齧る。甘い味が口いっぱいに広がり、溢れた蜜が唇を塗らした。


「……おいしいです」
「だろ。あんた一人で剥いた林檎だ」
「はい」


 一口齧ったらその先は早かった。あっという間に小さな林檎は細い芯だけになり、ころんとまな板の上を満足げに転がった。世間知らずの王女は、包丁を満足に扱えない。少なくとも、自分は。エステリーゼは身をもってそれを学び、旅に出てすぐに何でもこなせる王女様は書かないようにしよう、と心に決めた。


「さて……満腹になったなら、今日はもう部屋に戻れ」
「?」
「オレ、ちょっとこの後呼ばれてんだわ。エステリーゼも、今日はゆっくり寝ろ。ここんとこ毎日遅いだろ」
「……そうですか……では、そうしますね」


 てきぱきと片付けをしたエステリーゼは、また明日、と頭を下げて牢を後にした。罪人は暗い牢の中で、またな、と小さく手を振った。
 階段を上り、自室へと続く長い廊下の半ばで、ふとエステリーゼは立ち止まった。
 ……何か。
 何か、違う。
 わたしは。


(わたしは何か、とてつもない間違いをしていない?)


 彼の目が、声が、いつもと違った。優しくて、寂しげな色。いつも通りの柔らかな笑みの中に、どこか愁いを帯びたものがあったように感じた。まるで――あんたはもう一人で何でも出来るんだ、と送り出すような、そんな色。
 そうだ。きっと、別れの日が近いんだ。あんなところにいつまでも居る訳がない。有罪にしろ無罪にしろ、あの牢に一生居る訳がない。
 ……何を考えているんだ、わたしは。
 分かっていたことだろう。
 どのみち、あの人はここにずっと居ることはない。わたしは、外の世界が知りたかっただけ。誰かを庇って罪を被った人がどんな人か触れたかっただけ。ただの興味本位。外への好奇心。自分勝手な思いが足を動かして、それが偶然今に繋がった、それだけだ。
 だから、彼が居なくなるのは普通のことで、それが正しいことだ。
 その筈だ。
 そうでなければ。


(……わたしは)


 最後の日も、いつもの日にする。
 何にも気付かない振りをして、また明日、と手を振ろう。
 どんなに遠く、決して届かない明日にだって、手を振ってみせよう。
 微かな雷鳴から逃げるように、エステリーゼは胸を張って前を見据える。
 別れを惜しみ泣けば良いと囁く悪魔を振り払うように、強く手を拳にした。


 ――これが、罪人と姫君の、最後の牢屋のお茶会だった。