今日も今日で、暗い牢屋。等間隔に並ぶ明かりが寂しく周囲を照らす。不衛生な訳ではないが、華やかとは絶対に言えない、鉄格子の世界。
 そんな牢屋の一角から、男女の絞ったような不思議な声がもう一分ほど聞こえ続けている。見張りの男は最初の十秒こそ気にしていたが、もう十秒経った瞬間放っておくことに決めた。


「うぬぬぬぬ……お、おい、姫さんよ……後ろ見てみろ、後ろ」
「そんな手には……引っかかりませんっ……ううううう〜っ……!」


 折り畳み式に小さなテーブル。頼りなく支える四本の脚が、時折可哀想な音を立てて軋む。そのテーブルの上では――腕相撲。


「貴方こそっ、一回くらい負けても、良いんじゃないですか……!」
「何言ってんだ、女の子ならひ弱さアピールしたっていいんだぜ……なあ、あんた姫さんなんだからなあ……!」
「うぬう〜っ、負けません――っ……!!」


 姫と罪人が牢屋で腕相撲。こんな奇妙な光景があるだろうか。しかし現実にあるのだから困る。こんなこと日常茶飯事だ。
 幾らエステリーゼが鍛えているからと言っても、男女の筋力の差は越えられない。ということで、ハンデとして、エステリーゼは両手を使うことが許された。しかし結果はこの通り。両手を使って男の左手を押すのだが、もう少しのところから動かない。顔を真っ赤にして力をこめるが、互いの手がぎりぎり震えるだけだ。互いに軽口を叩き合うも、最早余裕は一切ない。


(ま、まずいです、このままでは負けてしまいます……!)


 そろそろ限界だ。エステリーゼは歯を食いしばり男の手を右へと倒そうと踏ん張る。それを真正面から見た男は、お姫様が鼻の穴おっ広げて踏ん張るなよ、と言おうとしたのをすんでのところで耐えた。
 そろそろ腕相撲開始から二分が経過しようとしていた時――男の部屋の明かりが突如消えた。へ?、と小さな悲鳴をあげてエステリーゼが辺りを見回した。数秒後には何事もなかったかのように明かりは灯った、が。
 左手の甲が、小さなテーブルの上にあった。


「……こ、これは……」
「オレの勝ち」
「こんなの反則です! 無効試合です!」
「勝ちは勝ちだ。騎士と同じ訓練受けてるなら、潔く認めろよー」


 にやにやと元騎士に言われても説得力は全くない。そっちこそ騎士だったなら正々堂々と勝負しろ、とは言わなかったが。


「エステリーゼ。今夜はもう戻れ」
「?」
「部屋に戻ってゆっくり休めって言ってんの」


 不服そうにする少女の顔から目を逸らし、テーブルを畳み始める。立ち上がると、少し心配そうな瞳でこちらを見て、それから頭を下げた。多分――これで全部終わってしまうのではないか、と不安になっているのだろう。
 そういうことではない。
 終わるとすれば、それは自分の身がここから別の場所へ移る時だ。


「……また明日な」
「は、はいっ」


 今度は顔を真っ赤にして、先ほどよりも早く頭を下げ、小走りに駆けて行った。分かりやすい、と彼は喉で笑ってから、天井を見上げた。
 ……本当に、いつまでここに居るのだろう。
 牢に入れられてから随分と立つように思えるのだが、一向に何も起きない。処刑……は、ないと思う。だが、簡単に外に出してくれもしないだろう。
 ここに居れば、また話が出来る、また外の話を聞ける、とエステリーゼは喜ぶだろう。けれど、それでは何にもならないのを彼女は分かっている。ずっと自分がここに居ることはないし、またここに居ても何も始まらないし終わらない。罪人の処分が決まるまでの仮住まいだ。処分が決まればここに留まる意味はない。


「……なあ、騎士さんよ。オレは下町からここに引っ越せって命令でもされたのか?」


 天井を見上げたまま言ってみたら、数秒の間を置いて硬い足音が聞こえてきた。居るのは気配で分かっていた。ただ、ここを去っていった少女に見付からないため、隠れていただけ。先程一度明かりを消したのも、エステリーゼを部屋へ戻すために彼がやったことだ。事前に打ち合わせをしていた訳ではない。だが、気配で何となく分かる。それだけこの騎士とは長い付き合いだった。


「君の部屋は定期的に軽く掃除させて貰っている。いつ戻っても、またすぐいつも通りの暮らしが出来るさ。痛んだ食物は処分したけど」
「……うわ、不法侵入」
「今更何を言ってるんだい」


 重たい鎧が擦れる音。頑丈だけど窮屈で、男は鎧がそんなに好きではなかった。汗をかいてもうまく拭けずにそのうちべたべたになるし、そんな状態で砂埃が起きようものなら汗に砂がくっついて取れやしない。


「君らしい……と、言って良いのかな」
「薄暗い牢屋に引っ越した理由か?」
「ああ。損な性格だな。皮肉屋でぶっきらぼうなのに、困っている人を放っておけない」
「お前に言われたかねえっつの」


 苦い顔をして、牢屋越しに立つ騎士に返すと、そうかな、と心底不思議そうに彼は首を傾げた。困っている人を放っておけないお人好し、だけならまだ良いが、彼は頑固で融通が利かない一面もあるから厄介だ。まあ、法を正すのだと口癖のように言っているのだから、それくらいでないと法を正す役目は務まらないのかも知れないが。


「……三日後、君の処罰が決められる。処刑になることはないだろう」
「悪くても、一生ただ働き程度ってことか」
「余り嫌そうに見えないよ」
「いやいや、夜のお茶会が充実してるんで」


 軽い口調で言ったら、騎士の唇が微かに震えた。……良い反応だ。一呼吸置いてから、彼は続けた。


「そろそろお前がオレんとこに顔出しに来るんじゃねえかと思ってた。……なあ、あのお姫様は、その……オレの処罰について、何か反論したりとか、ねえよな?」


 言いつつも、答えは分かっていた。けれど、どこかで間違いであると嘘でも言って欲しかった。この聡い幼馴染の騎士は頑固だけどその辺りはよく察するから、何かを返そうと口を開きかけ、けれど一度閉じる。そして一つ瞬きしてから改めて言った、


「反論することはない、と言って欲しいんだね」


 全く正論である。あの姫君の性格は、この数日で大体理解した。彼女は何かを尋ねれば自らのことをよく話してくれるし、表情は疲れないのかと思うほどよく変わる。正義感が強く、優しい子。そんなエステリーゼは、自分が処罰を受けると聞いたらきっと何か行動を起こすに違いない。
 いっそ煩わしいと思えれば楽になれるだろうに、心は彼女の光に照らされるばかりだ。数回だけ何かの弾みで触れたことのある指先が、そっと閉じた瞼を撫でるような、そんな気持ち。きっと自分は、心のどこかで、彼女が自分の処罰に対して反論することを嬉しいと感じているのだ。何て愚かしいのだろう。そんなこと思ったところで、何一つ良いことなどありはしない。


「……教えてくれてありがとな。処罰までに、心の準備でもしておくよ」


 瞳を閉じて、軽く笑った。この話はこれでおしまい。長く続ければ、この騎士はいつものように小言を言ってくる。今そんなことをされてしまえば、判断が鈍る。
 終わりの時は、もう近い。
 エステリーゼとは、次でさよなら。
 それで全ては元通り。


「後はお前の役目だよ――フレン」


 そして掛布で全てを閉ざした。
 親友の足音が聞こえるまで、三分ほどかかった。