普段は気にならないことだが、なぜだかその日ばかりはドレスが重たく感じてしまった。等間隔に並ぶ照明は道を行くごとに間隔が広く、頼りなくなっていくような気がする。エステリーゼは少しばかり不安になりながらも、前を向いて歩く。
 手には一振りの剣。使い慣れたサーベルだ。ドレスでは余り派手に立ち回れないが、身を守るくらいなら出来る筈だ。
 この夜、エステリーゼは、自らの運命を大きく動かす男と出会う。
 けれど――運命が大きく動くことは、最初から運命の枠の中。


「こんばんは。初めまして」


 最初の一言を何にするか、エステリーゼは数時間考えていた。けれど、これといって素敵な第一声は思い浮かばず、それならやはり挨拶から始めるべきだろう、と考え、この言葉を使うことにした。牢屋の向こうで、罪人の男は少し驚いたように顔を上げてから、よく通る低い声で笑いながらこう言った。


「……こんなところに来るとは、中々神経の図太いお姫様が居たもんだ」


 人殺しという罪で捕まった男のことは、話に聞いただけでどんな男かまでは知らなかった。自分より幾つか年上だろう、整った顔立ちの男だった。暗がりの中でも浮かび上がるような不思議な黒い瞳。綺麗だな――と、エステリーゼは思う。それと同時に、今までの不安や緊張感が、驚くほどすうと消えていくのが分かった。
 やっぱり、この人は悪い人じゃない。
 悪いことをしようとして人を手に掛けたのでもない。
 ただ、暴行を受けていた子供を助けた、それだけだ。


「図太いと、お姫様ではないんです?」
「いいや? 剣持ってやって来たもんだから、どんなお姫様かと思っただけだ。その剣、ハッタリじゃないんだろ?」
「ええ。心得ております。けど……持ってくる意味はなかったみたいです」


 万一を考えて持ってきた剣は、重たいだけのお荷物だったらしい。結局脇に立て掛けることにしたら、男の顔は更に驚いたように――というよりは、驚きを通り越して不審そうな色さえ帯びたものになった。ちょっと待って、わたし何かいけないことしたかしら。思いつつ、エステリーゼは首を傾げる。


「……何か変なことでも?」
「いや、……えーと」


 男はかなり迷ったような、困り果てたような顔をして一度目を逸らした。


「……何から突っ込むべきか迷うな。……そうだな、まず、……服、汚れるぞ?」


 そういえば、自分はドレスだった。淡い色合いのドレスは汚れがついたらすぐに分かってしまう。だが、ここの埃は手ではたけば取れるようだし、汚れが服に浸透しないうちにどうにかすれば大丈夫だろう。エステリーゼは暫くドレスを見下ろしてから、ひとつ頷き顔を上げた。


「後で頑張って洗います」


 とうとう男は不審を更に通り越したようで、終いにはけたけたと笑い出した。


「あっはははは! あんた、面白いな!」
「え、えっ……あの、わたし何か変なこと言いました?」
「お姫様が、頑張って洗う、なんて言わないだろ」
「自分で出来ることは自分でやりたいと思ったので……あの、おかしいです?」
「いや、良いと思うけど? そうだな、そんくらいじゃなきゃ、人殺しに会いに来たりはしねえな」


 ほどなくして、笑いがおさまってきた男は水差しからコップに水を注ぎ、ぐいと飲み干す。それからベッドから立ち上がり、牢屋の前にぺたりと座った自分の真正面に腰を下ろした。


「それで? 何か目的があって来たんだろう」
「あっ、はい。……その……貴方は、今の状況が理不尽だと思わないのかな、と」
「どの辺が理不尽なんだよ」
「……貴方がここに居る理由を聞きました。下町で騎士に乱暴なことをされていた男の子を助けるためだったって。人を殺したということに変わりはないけれど、……同時に誰かを助けてもいるのでしょう?」


 下町のことなど放っておけ、と誰もが言うだろう。だがエステリーゼはそうは思わなかった。自分が優雅に暮らしているのは、自分が姫であるからだ。もし自分が下町に生まれていたら、きっと今の状況を理不尽だと感じるだろう。蔑まれる立場である自分を守り牢に入れられた人が居ると知ったら、きっとその人を助けようと思うだろう。
 身分が違う、たったそれだけでこんなことが起きるなんて今まで全く知らず育ってきた。温かな場所でのうのうと生きてきたのだ、と思うと、自分に腹が立つ。


「……それでも、騎士が死んだことに変わりはねえさ」
「それは、」
「あの騎士にだって守るべきものはあっただろ。家族だって居ただろうし、幸せな未来だってあっただろうな。オレはそれを切り捨てた。子供を守るためだろうが何だろうが、そいつの一生を奪った。何も理不尽じゃねえよ」


 そこまで言うと男は、いいか、と一つ前置きしてからエステリーゼの瞳を真正面から見据える。牢屋越しに射る強い眼差しに、ぞわりと首筋に冷たいものが走った。


「例えばあんたがその騎士のように、下町の子供に酷い怪我をさせたとする。まあ、そんなことしないだろうけど……例えばの話だ。そしたらオレはあんたに何らかの方法でやり返すだろうな。あんたが姫さんだろうが知ったこっちゃない。どう思う?」
「やり返されても仕方のないことです。こちらが怪我をさせたんですから」
「じゃあその時、あんたの足が一生動かなくなるような仕返しをしたら?」


 エステリーゼが小さく息を呑む。それを見て、男はどこか満足したように息をつく。その行動を待っていたのだ、というような表情だった。


「そうだ。オレはあんたを一生歩けなくさせた。自分の力じゃ立てないようにさせた。あんたの自由を奪ったんじゃあ、罪はないなんて言えないな。牢屋に入れられたって、理不尽じゃねえだろ」
「…………あ……」
「そう怖がんなって、例えば、の話だ。……まあ、あの騎士は本当にあの子供の足をぶっ壊したがな」


 最後の言葉は低く小さい。自分から目を逸らし、吐き捨てるように呟いていた。その黒い瞳は先程より鋭く、恐ろしいほど強い。


「もし、オレが殺した騎士があんたと仲の良い騎士で、あんたがオレを憎いと思えば――その剣でオレが殺されても、文句は言えない。それが復讐だ」
「貴方はそれで良いんですか」
「但し、ただじゃ殺されてやんねえけど」


 ……わたしは、今まで何をしていたんだろう。
 下町のことも、騎士のことも、わたし自身のことも、何も知らずに生きてきた。
 突如訪れる眩暈に、悔しくて唇を噛んだ。身体中の血が足元へと下がっていき、顔が冷たくなっていく感覚。わたしは馬鹿だ。これでは、この人の覚悟を笑いに来たようなものではないか。


「……なあ。あんた今、オレのことどうにか逃がそうって思ってないか?」


 びくりと肩が震えた。ああ。何てこと。本当にわたしの行動の一つ一つが、彼を侮辱している。どうしよう。もう彼の前から居なくなった方が良いのか。駄目だ。そんなの、逃げているだけ。わたしはこの人のことを知りたい。逃がしたい。それは本心だ。でも、彼は本当にそれで救われる?
 俯いたままぐるぐると考えていたから、目の前の真っ黒な男が呆れたように、けれどどこか優しく息をついたことに気付かなかった。


「あんた」
「はい」
「名前、何て言ったっけ」
「……エステリーゼ、と申します」
「ああ。エステリーゼ。……エステリーゼ」


 何度か発音を確かめるように小さく呟いていた男は、やがて満足したのか小さく頷き、こちらを見た。


「そうだ。あんたはオレを逃がしちゃいけない。その心があれば、あんたは大丈夫だ」


 あんたは姫だ。望まなくても、この国の一部を背負ってる。そんな奴が、ちょっと同情したくらいで罪人を逃がしたりしちゃいけない。逃げたくなったら自分でどうにかするさ。だからあんたは、簡単にオレを許しちゃいけないんだ。
 諭すように言われ、エステリーゼは目を力任せに擦って滲んだ視界を無理矢理追い払った。そして、男を見据え、はい、と迷いなく頷いた。
 そうだ。彼を知るため、わたしはここへ来た。


 これが、エステリーゼの運命を大きく動かした、ある夜の出来事だった。