「毒入り?」
「まさか。暗殺容疑でこっちが捕まるだろ」


 意外な差し入れを受け取った彼が言った言葉に、看守は呆れながら答えた。
 いつもと同じ夜の闇。けれどいつもと違うのは彼女が来ないことと、なぜだか看守がホットコーヒーを持ってきたこと。
 今ではエステリーゼが夜に足を運んでくるのが当たり前のようになっているが、毎日来ている訳ではない。彼女には彼女の暮らしがあり、毎日決まって来られるほど暇ではない。彼女が来ないこんな夜は、窓の外で鳴いている名前も知らない鳥の声を聞きながらすうと眠りに落ちるのだが、今夜は少し違った。
 手の中にある少し凹んだカップの中には温かなコーヒー、目の前には鎧を身にまとった若い看守が腰をおろしていた。


(……まさか、エステリーゼが面白がって看守に変装……いや、んなわきゃねえな。幾らなんでも性別を飛び越えるなんて、あのお姫様でも出来ないだろ)


 一人頭の中で思い、一人頭の中でつっこみを入れる。奇想天外なことばかりする姫君ではあるが、さすがにこんなことは出来ないだろう。穏やかな物腰の少女が、野太い男の声で喋れたりするものか。


「で? どういう風の吹きまわしだい、看守様が罪人にコーヒーの差し入れとは」
「いや、俺も退屈でさ。看守って言ってもやってることはここに来る奴に挨拶するくらいだ。看守の任に就いて半年経ったが、脱走者なんて一人も居ない」
「……でも居眠りは流石に危ないから、眠気覚ましに話し相手になってくれ、と」
「お、物分かりが良い。元騎士ってのは伊達じゃないな」


 元騎士――ここに来てから何度もそう呼ばれているから、うんざりする気持ちはもう捨ててしまった。だって、元騎士だったのは本当だし。


「まあちょっと聞いてくれ。俺にはこれでも家族が居てな、料理上手な妻と可愛い娘が居るんだ。あ、娘の名前はサンリァって言ってな」
「は? ……ちょ、おい、眠気覚ましって家族自慢? 娘の惚気? そういうのオレどう話し相手になれって、」
「まだ二歳なんだけど頭が良くてなー、いやもう可愛いのなんのって! 最低でも二十歳になるまでは誰の嫁にもやらせないって決めてんだ、妻には呆れられるんだが、ああー会いたいなあ、サンリァに会いたいなあ、パパって楽しいなあもう!」
「………………それは、おめでとう」


 この調子だと、特に自分相手に話さなくても壁に話していれば済むのではないか。思いつつ、彼は適当に相槌を打っておいた。姫君が姫君なら看守も看守である。


「不思議な気持ちになることがあるんだ。……妻と娘のためなら、何でも出来るって気持ちだ。今となっては、どうしてこんな鎧を着ようと思ったのか分からなくなった。帝都を守るより、誰かを守るより、家族を守りたいと思うようになったからか」
「……良いんじゃねえの、それで。守りたいものがあるんだろ」
「そうだ。だから不思議なんだ。俺は本当にここに居て良いのか、守りたいならずっと家族の傍に居れば良いんじゃないか――そうやって、時々考えるんだ。でも食ってけねえ。傍に居るだけじゃ守れねえ。難しいもんだ」


 ため息をつくと、看守はコーヒーを啜った。一体この男はどうしてこんな話を自分にするのだろう、と彼は眉を寄せた。呆れるほど幸せな家族の惚気の筈なのに、心が棘に触れたようにざわつく。


「なあ、俺はな……もう一つ、不思議なことがある」
「?」
「お前に感謝しているんだ」


 コーヒーから立ち上る湯気の向こうで、看守が笑う。


「お前が捕まった理由を知って、思ったんだ。お前が助けた子供がもしもサンリァだったら、ってな。そして俺がお前だったら、迷わずお前と同じことをした。子供からも世間からも罪人と思われて良い、それでも娘を助けたいと、きっと思った」
「何だ、同情か?」
「さあ、そうかも知れないな。だが、お前と同じ気持ちを持つ俺も罪人かと思っただけだ」


 やっぱりこのコーヒーは毒が入っているんだ、と彼は瞳を閉じる。
 こんな気持ちにさせられる。
 それでも彼はカップに口を付け、毒を体内に流し込む。暖かい、そして苦い、理解出来ない感情を脳に運んだ。


「なあ、俺は狂ってるのか」
「お前が狂ってたら、思うだけじゃなく行動に出たオレはもっと狂ってるさ」
「そうか。ま、狂ってるとしても――ここに生きてるんだ。諦めるか」


 そういえば、前にエステリーゼが鉄格子の内側に入って来た時。あの時彼女は、看守に入れて貰った、と言っていた。その看守はこの男だろう。成る程、こんなことを言われてしまっては納得がいく。
 オレがエステリーゼを殺さなくて、ここから出ようともしないことを、こいつは最初から分かっていたんだ。
 だから彼女がここに来ることも、鉄格子の中に入ることも、全部許しているのか。


「で? そんだけ溺愛しちゃう娘が居るってことは、写真の一つでもあるのか?」
「よくぞ言ってくれた。まあ見ろ見ろ」
「……持ってんのかよ」


 そんな風にして、彼女の居ない夜は更けていく。