姫、というのがどのような存在か、実は彼は理解していなかった。
 かつて騎士団に居た身分ではあったが、この国の姫君には一度も会ったことがなかった。というか、皇帝にすら会ったことがないというのが事実だ。お言葉、のようなものは誰かが読んでいたけれど、直接言われた訳ではない。
 もとより彼は高貴な身分の者に良い印象を持ってはいなかった。彼らに呆れ、自分はこのような人々も守らなければいけないのかと絶望し――まあ他にも色々と理由はあったが、結局彼らの横暴な態度に冷めて下町に戻ったのだ。が。


「今日は何だか冷えますね。あ、これ、厨房から頂いてきたんです。余りものですけれど、温まりますよ。それからはい、わたしが普段膝かけに使っているんですけれど……もう一つ持っていますし、宜しければ使ってください」


 目の前、鉄格子の向こう側で汚れた廊下に座っている姫君は、隙間からカップに入ったスープを渡してきて、かと思ったら花柄のブランケットまで突っ込んできた。違う意味で呆れてしまった彼は、とりあえずカップを手にとってエステリーゼを見つめた。


「……あのさ。質問……いや、やっぱいい。しても無駄っぽい」
「何の話です?」
「何でもねえよ。じゃ、ありがたくいただきます」


 実際ここは冷える。出される食事なんて必要最低限の量しかないし、温まったものなんてそうそう出ない。余りものだろうと何だろうと、厨房で作られたスープは美味しいし、熱くて温まる。口に含むと玉葱の甘い味と微かな香辛料の味わいが広がった。


「ん、旨えなやっぱ。城の料理は違うな」
「そうなんです?」
「ああ。下町じゃ、あるもの使って適当に食ってたし……味付けだって、限られた調味料でやりくりしてるしな。ま、それはそれで面白いんだけど」
「面白い……?」
「限られた選択肢の中でどれだけの種類の味付けを可能にするか。考えるのは結構面白いぞ」
「お料理、好きなんですねえ……今度わたしにも作ってくれませんか?」


 期待を込めた眼差しで言うこの姫君は、全く立場を理解していない。彼はため息をつくと、目の前の少女に一言一言区切りつつ抑揚をつけて言ってやった。


「あのな。オレは牢屋にぶち込まれてんの。で、お前はお姫様なの。オレが、こっから出て、お前のために厨房行ってスープ作るなんて、出来ると思いますか?」


 一言区切るごとに少女の顔が強張り、眉が寄り、ううっと泣きそうな呻き声を出し、最後は盛大に息をついてがっくり項垂れた。


「そうですよね……もうこうなったら、野外用のセットを持ってくるしか……」
「どうしてもオレに作らせようとするかね……、………………エステリーゼ」
「……今、明らかにわたしの名前忘れてましたよね?」


 じとりとした目で見られ、乾いた笑いをしつつ目を反らす。視界の隅っこで頬を膨らましているエステリーゼは、やがて呆れたように苦笑した。


「もう、良いです。ちゃんとわたしが言う前に、名前言ってくれましたから。今までは言わなきゃ思い出してくれなかったですし。それだけでも大きな一歩です」
「……お前さ。何でそんなにオレんとこ来るんだ? お姫様が罪人に連日面会、しかもスープやら何やらの差し入れ込みとは、普通じゃないだろ」


 今まで何度か訪ねようとして躊躇っていたが、もう限界だった。エステリーゼが姫ではなく単なる娘であろうとも、この疑問は同じだ。何が面白くて毎日冷たい牢屋にやって来て、しかも暖かいスープまで持ってくるのか。話す内容はとりとめのない会話で、きっと彼女にとって一つも面白い会話でもないのだろうに、それでも翡翠の瞳は揺らがずに自分を映す。


「普通はどうするものなんです?」
「そうだなあ……『人殺しには怖くて会えませんわ!』とか『人の命を奪う者など処刑にしておしまい!』とか? 剣を抱えて会いに来るなんて、こっちがビビったぞ」
「うーん……正直な話――わたしも最初はそうやって思いましたけど、」


 でも、と少女はどこか困ったように小首を傾げて続ける、


「貴方と話して分かりました。貴方が人の命を奪ったというのは本当なのでしょう。けれど、わたしは貴方が必ずしも悪いことをしたとは思えないのです。もう亡い命を冒涜する訳ではありません。けれど……貴方が奪った命でまた違う命が助かったのは事実です」


 こんなことで助かる命があるなんて、悲しいですけど、ね。
 言って緩やかに瞳を閉じた。桃色の睫が微かに震えていた。


「だから貴方は、少なくとも悪い人ではないと思います」
「……悪い奴じゃなかったら、人を殺さずに誰かを助ける手を考えたさ。オレはそんなことが出来る程器用じゃないようでな、何かを蹴飛ばして何かを守るしか出来なかっただけだ」
「でも、何かを捨て、その重みを受け入れるのは……誰でも出来ることではありません。怖くて何も出来ないわたしが言うべきことでは……ない、ですけれど」


 数口含んだだけで手の中におさまっているスープは気付けば温くなっていて、あんなに白く浮かんでいた湯気もいつの間にかなくなっていた。カップに口を付け一気にスープを飲み干すと、彼は鉄格子に近付きエステリーゼの前に置かれていたトレイにカップをこつりと置いた。その男に彼女が顔を上げる。


「ご馳走さん。旨かった」
「お粗末さまでした。……わたしが作った訳ではありませんけど」
「でもお前がここまで持ってきてくれたから食えたんだぞ。ほら、もう部屋に戻って寝な」


 言われてエステリーゼはポケットを探り、懐中時計が示す時間に瞳を瞬かせた。


「まあ、もうこんな時間? 気付きませんでした」


 彼女は慌ててトレイを持ち上げると、それじゃあ、と頭を下げた。


「ありがとうございます。……ほんの些細なことでもわたしにも出来ることがあるって分かって、嬉しかったです」
「そうか、じゃあ明日はもっと豪華な食事を持ってきてくれよ」


 笑いながら言ったら、冷たい鉄格子の向こうでエステリーゼがぽっかり口を開けてこちらを見つめていた。それきり何も言いそうになかったので、ひらりと手を振り、


「冗談だって。持ってくんの大変だろ」
「あ、そ、そうじゃなくて。……明日、って。言ってくれたの、初めてでした。いつもは『また今度』って言っていたのに」


 もしかしたら永遠に来ないかも知れない『今度』ではなく、空が明るくなって目覚める『明日』を。


「……そうだったか?」
「そうですよ。……『また明日』」


 嬉しそうにはにかむと、少女は軽やかな足取りで消えていった。耳鳴りがしそうな静けさに眠気が訪れ、借りたブランケットと毛布を被って瞳を閉じる。ろくに日の光がささないこの空間で、太陽の匂いがするブランケットに触れる機会があるなんて。


 あの桃色の髪。
 触れたら花の匂いでもするのかな。


 考えた刹那、思考は甘く溶け、彼はぼやけた夢の中に足を踏み入れた。