貴方の世界に、ワインをあげる。


 目を焼くように、鮮やかな色を。








罪人姫君








 この世界が平和であるように、願う。
 それは誰だって出来るけど、それを叶えることは誰にでも出来なくて、きっとそんなこと出来るのはこの世界全てでも片手で足りるくらいの人だろう、と少女は思っていた。
 まだ幼さやあどけなさを残す顔付きだが、もう十八だ。意志の強い瞳は大人の女の色を僅かに帯び、長い睫毛は煌びやかな翡翠の輝きを柔らかに彩った。


「そう、正解。一握りの奴が世界を救い、世界を決める。でもそれって良いと思わないか? 世界を決めるのなんて、大勢も要らない。そんなことしてたら、考えなんて纏まらないぞ」
「そうなんです?」
「そうなんです」


 暗くてじめじめした地下。微かな明かりが冷たい空気をほんのり照らす。淡い色合いのドレスで身を包んだエステリーゼは、そんなドレスが汚れることを厭わず、床にぺったり座って真正面を向き頷いた。ひんやりとした鉄格子の向こうには、黒い男。肌は別に黒くない。黒い髪に黒い瞳に黒い服、そして部屋まで暗いものだから、自然『黒』という印象が強くなる、そんな男だった。


「だからな、えーと、あんた……」
「……エステリーゼ、です。もう、いい加減覚えてください。これで何度目です?」
「悪い悪い、長い名前覚えるの苦手で。……エステリーゼ。エステリーゼ、な。オッケーオッケー」


 何度か発音を確かめるように呟く男を見て、本当に覚えてくれてるのかしら、とエステリーゼは眉を寄せた。この男と話すようになってから、今日で四日目。一日経つと自分の名前を忘れている彼に呆れるのも面倒になってきた。


「さて。今日は何の話からだっけ」
「井戸に落ちたおばさんの指輪のお話ですよ。もう、わたし気になって気になって仕方なかったんですから!」


 そうだったか、と男はぼんやり昨日を思い出し、そして少女に目を戻した。


「じゃ、続きだな」


 そうして彼の口から語られる外の世界に、今日もエステリーゼは思いを馳せた。








 彼と出会ったのは、四日前のことだった。
 人殺しが捕まった。
 分かりやすいが抽象的な話を聞いたエステリーゼは、最初は『悪い人が捕まった』と思っていた。
 だが、疑問を抱き始めるまでにそう長い時間はかからなかった。
 数時間経って、下町で騎士に暴行を受けていた子供を助けた、という話を聞いて、エステリーゼは心の中にもやもやするものを感じた。
 元騎士の男は騎士を殺して牢屋行き。殺された騎士は下町の子供に乱暴をした。牢屋の元騎士は下町生まれ。様々な話を繋げてみると、どうも捕まった男が悪いとは思えなくなった。
 多少の恐怖はあったが、会ってみたい、話してみたい、と思ったのも事実だったので、エステリーゼは意を決して牢屋へと足を踏み入れた。
 そして、この真っ黒な男と出会った。
 何も知らない外の世界に思いを馳せるようになったのは、それからだった。






『……こんなところに来るとは、中々神経の図太いお姫様が居たもんだ』


 彼の最初の言葉はそれだった。馬鹿にしたような言葉なのに声色には全くそんな気配はなく、寧ろ驚いたような言い方だった。軽い口調で言ってのけた男は、全身黒ずくめ、と表現するのが一番だった。黒く長い髪、黒い瞳、黒い服。けれど口元に浮かべた笑みはどこか柔らかで、それだけでエステリーゼは抱いていた不安や恐怖を忘れてしまった。


『図太いと、お姫様ではないんです?』
『いいや? 剣持ってやって来たもんだから、どんなお姫様かと思っただけだ。その剣、ハッタリじゃないんだろ?』
『ええ。心得ております。けど……持ってくる意味はなかったみたいです』


 抱えてきたひと振りの剣は脇に立てかけ、エステリーゼは鉄格子の前にちょこんと腰をおろした。鉄格子の向こう、ベッドに座って頬杖をつきこちらを見ていた彼は、黒い瞳を見開く。その様子に、エステリーゼは首を傾げた。


『……何か変なことでも?』
『いや、……えーと……何から突っ込むべきか迷うな。……そうだな、まず、……服、汚れるぞ?』


 言いながらも、どうして最初にこんな質問をしたのか、彼は後悔した。もっと言うべきことはあったのだが。しかし彼女は自分の服を見下ろすと、にっこり笑ってこう返す、


『後で頑張って洗います』


 ……そういうこと言ってるんじゃないのに。