「……わあ。可愛い」


 その日は特に冷え込んだ夜だった。近所のデパートで買い物をして夕食を食べて、エステルを家まで送る途中、デパートの出入り口近くで彼女はふうわりした声でそんなことを言った。


「ユーリ、見てくださいこれ。可愛いです」


 小さな雑貨屋に飾られていた、花の飾りがついた指輪だった。指先でつまんで光に翳すと、葉の部分が透明になって光を零す。


「……へえ、珍しいな。お前そういうの、つけないのに」
「つけないですけど、嫌いではないですよ。きらきらしていて、素敵ですもの」


 ふうん、とユーリは適当に相槌を打って、並んでいる指輪を見つめた。銀色の指輪にラインストーンが眩しく光る。
 買ってやっても良いよな、と、ぼんやり思う。けれど値段を見て首を傾げた。どれもこれも、千円出せば釣りが返ってくる指輪だ。プレゼントするには安い。……と言えば、きっと彼女は『そういうのは値段の問題じゃないんです』と怒るのだろうが。


「……ま、良いんだけど」
「はい?」
「や、それ。気に入ったのか?」
「それはもう! ちょっと待っててください、わたし買ってきます」


 そんくらい買ってやるよ、と言おうとしたのだが、にこにこ笑いながら小走りにレジに向かっていく後ろ姿に声をかけるには遅すぎた。
 そうして、右手の人差し指に嵌めて、可愛いでしょ、と笑って戻ってきた彼女を見て、結局頬が緩んでしまった。繋いで帰った手のひらには指輪の固い感触が残り、寒い空気を吸い込んだ銀色の指輪が手の暖かさで熱を持っていくような気がした。


「なあ、エステル」
「何です?」
「……欲しい指輪。ちゃんと考えてるのか?」
「あ…………、えーと……」


 言われてエステルはかあと頬を赤らめ俯く。それきり黙られてしまったので、ユーリは困ったように少し眉を寄せた。


「じっくり考えてくれんのは良いんだけどさ。正直オレ、ずーっと我慢してんの辛い」
「えっ、あ、ごめんなさい」
「まあ一生モンだしな、ちゃんと考えた方が良いんだろうけど」
「そのことなんですけど……あの、やっぱりわたし、考えるの、やめようと思います」


 予想外の言葉に、ユーリはぴたりと足を止めた。街灯の下で立ち止まった二人の影が長く伸びる。


「…………………………どういうこと、それ」
「考えるの、やめようと思うんです。……あっ! あの、違うんです! その、そういう話じゃありません! ごめんなさい! 全然違うんです! ユーリのこと嫌いになったとかじゃなくて! その……えっと、や、約束したこと、やめようとかじゃないです!」


 勘違いを生む発言をしたことに気付いたエステルが、慌ててユーリの冷たい声色の発言を否定する。


「わたしの欲しい指輪を考えるの、やめようって。……そう思うんです。今更かも知れないんですけど……ユーリに考えて欲しいんです。一生残るなら、ユーリが一番良いって思う指輪が良いなって。だから、あの……そういう意味なんです」


 結婚するのをやめようって意味じゃないんです。そんなの、ないです。絶対ないんです。
 消えそうな声で言ったエステルはすっかり目線を下にしてしまって、表情は全く見えなかった。それでも手は離すまいと、ぎゅうと手に力を込めていた。……表情なんて。見えなくたって、分かってしまうのに。


「それで、あれの方が可愛かったな、とか文句言うなよ?」
「言いません。ユーリが選んだなら、絶対に素敵です」
「何だそりゃ」
「そういう意味です」


 俯いたままエステルはくすりと笑い、それから顔を上げた。身体を撫でる冷たい風と、それから恥ずかしさで赤くなった頬。ユーリは繋いだままの手を持ち上げて、細い指に飾られた花に口付けた。それが左手の薬指だったらどんなにか幸せだっただろう――と思ったが、こんな寒い夜に街灯の下でするようなことでもない。楽しみはもっと先、ちゃんと雰囲気を作らないと。


「期待しないで待ってろ。しっかり選んでやっから」
「はい。期待してます」


 するなっつってんのに、と笑っても、決してエステルは言うことをきかなかった。






 ああ、もうあれから何ヶ月も経ったんだ、と、頬を撫でる風に思う。あんなに冷たかった北風は春の暖かな風に、夏の温い風に、そして秋の乾いた風に変わった。この次に待っている北風が来れば、もう、一年。


「お、見えてきた。ほらエステル、そっち…………、おい、エステル。目ェ開けたまま寝てんのか?」


 赤信号にブレーキを踏んだ。視界の端に見えてきたきらきらした海面に、ユーリがその方角を指差す。が、じいとこちらを見ているエステルは見向きもしない。ハンドルを握る自分の左手に目がいっていると分かったユーリは、眉の間にこつりと拳をぶつけた。


「いたっ」
「何人の手見てんだよ。手フェチ?」
「……そうじゃないですけど、でも綺麗だなって」


 その言葉に嘘はない。けれど、現在の感情全てがこれかというと、そうでもない。お見通しだと分かっていてもエステルは嘘をつき、その嘘を知りながらユーリは青信号に目線を前へと戻した。