心地良い圧力は、貴方次第。








魔法は手のひら








 青い車で海へ出掛けることになったのは、昨夜の寝る前、つまり今から八時間ほど前の話。もう十五夜も終わってすっかり秋の風が吹いてきたのに、どうして今になって海なのか、突如話を持ちかけられたエステルにはさっぱり理解出来なかった。


『いや、何か突然海に行きたくなって。ほら、海とかプールとか行かなかっただろ。明日休みだし。海行くぞ』


 しかもよりにもよって寝る直前に言われた。どうして寝る直前に言うのか。どんな服を着て行こうとか、お弁当は何にしようとか、明日の朝の炊飯のタイマー変えなくちゃとか、色々あるのに。もう身体は就寝体勢だから今からベッドから出ようなんて思っても行動出来ないし。
 だが、そうやってぐちぐち怒ったところで、行きません、とは言えない。だって、海行くぞ、とか言われたら、行きたいです、が本当のところだし。


『じゃ、そういうことで。明日は海な。九時出発』


 うんうん唸りながらエステルが色々と考えているのは知っていたが、これ以上自分が口を挟んでもどうしようもない、とはユーリも分かっていた。なので早々に話を切り上げ目を瞑る。行く、とも、行かない、とも言っていないのに、とエステルは慌てて起こそうと思ったが、どうせ意味のないことだと考え直し、就寝体勢の身体を宥めて炊飯のタイマーを変えにキッチンへ向かう。
 だって、行く、しか選択しないと伝わっているんだし。
 そんなこんなで、現在は車の中。
 海へ続く道をひた走る。


「そういやさ、お前どうなってんだ。教習所」
「あ、もうすぐ路上に出ますよ。学科のテスト、満点取ったんです!」
「残念。オレも数年前、満点だった」
「…………ぬう」


 主婦業をしつつ童話作家をしつつ、教習所にも通う生活をしている彼女は、退屈しない毎日を過ごしている。鞄の中から取り出した板チョコをぱきりと割って、差し出されたユーリの左手に一欠片乗せる。


「もうすぐわたしも、この車運転出来るんですね」
「ははっ、そしたら記念に遠出だな。初心者マーク貼っ付けて旅行だ」
「え……いきなり遠出なんです……?」
「まさか。交代に決まってんだろ。免許取り立ての奴に長時間運転させたら、死んじまう」


 その『死んじまう』とは、当然運転手ではなく、助手席に座る自分のことを指している。チョコレートを舌の上で転がしながらユーリが言うと、反論しようとエステルが口を開く。が、尤もな言い分なので何も言わずにチョコレートを口に含んだ。
 開けた窓からは風が吹き込み、肩を髪が掠めていく。ハンドルを握るユーリの手は骨張っていながらも酷く美しい線を描いていて、エステルはこの手がとても好きだった。左手の薬指には自分が嵌めているのと同じデザインの、けれど色やサイズが違う指輪。


(……何でだろう)


 時々、不思議に思うことがあった。
 この指輪一つで、この関係が成り立っているように感じてしまう。
 何て儚くてちっぽけな絆なんだろう、と、ぼんやりと考える。互いを思っても、結婚しても、昔から余り二人の関係は変わらない。恋人になっても夫婦になっても二人は二人で、接し方を変える必要性を感じなかった。が、それでは駄目なのだろうか。日の光を受けてちかりと輝く彼の薬指を見つめ、エステルは数か月前のことを思い出した。
 あれは、冷えた寒い夜。
 切るように吹き抜ける風に頬がぴりぴりとした夜。
 高校の卒業式を控えた、冬の夜だった。