読み聞かせも終えて宿に帰る途中、エステルはよく見知った人影を遠くに見つけた。


「……あ! ジュディス!」


 ぱあと顔を輝かせて駆け寄ると、ジュディスはいつもと変わらない、優しい大人っぽい笑みを浮かべて小さく手を振った。


「久しぶりね、エステル。元気そうで良かったわ」
「はい! ジュディスもです」


 思い切って真正面から飛び込むと、ジュディスは優しく抱き留めて頭を撫でてくれた。一歳しか違わないから少し変だけれど、何だかジュディスはお姉さんみたいで、こうして貰うと心が柔らかく包まれているように温かくなった。


「ユーリが、後で来てくれると言っていたので、待っていたんですよ」
「あら、そうなの。ありがとう……でも残念ね、すぐに行かなければいけないの」
「そうなんです? お茶くらい飲んでいきませんか?」
「折角だけど、また今度にしておくわ。エステルの部屋に行ったら、ユーリがぐっすり眠っていてね。起こしては悪いだろうし」


 そういえば、ユーリが部屋で寝ているんだった。残念そうな顔をしたエステルの身体を離し、あら、とジュディスは目を見開いた。


「エステル、髪、伸ばしているの?」
「え? ……あ、はい。まだほんの少ししか伸びてないですけど」


 以前までは肩で切り揃えていた髪は、今はそれより五センチほど下にある。伸びているのを切っていないだけ、と言えばそれまでだが、彼女はまめな性格なので、伸びればすぐに揃えるだろう。気付いてくれたのが嬉しかったのか、エステルは桃色の髪を摘まんで笑った。


「わたし、余り髪を伸ばしたことなかったんです。少しは伸ばした時期ありましたけど、ユーリくらいまではしたことがなくて……それで、一度伸ばしてみようかなって、思ったんです」


 ユーリくらいまでにするにはかなりの時間が必要ですけど、とエステルは照れたように笑った。


「そういえば、ジュディスも髪長いですよね。たまには縛らないでいたりとか、しないんです?」
「縛っていないと邪魔なのよ。戦う時も鬱陶しいし」
「……じゃあ、短くしたりとかはしないんです?」
「中途半端な長さだと縛れもしないわ。……そうねえ。丸刈りなら楽そうだけど」
「そ、それは! ジュディス、それは駄目です!」
「冗談よ」

 にっこり笑って否定はされたが、ジュディスは何をするかよく分からないので、次に会った時も同じ髪型だといいなあ、とエステルは心の中で呟いた。


「それじゃ、私、もう行くわね。身体に気をつけて」
「はい。ジュディスもお気をつけて」


 ひらひらと手を振って笑うエステルに背を向けて、ジュディスは考えた。
 あの部屋で起きていたこと、あの子に言ってあげたほうが良かったかしら。誤解だっていうのは知っているけど。でもあの子は、何だかユーリのことを信用しすぎているから。
 まあ、それで過ちが起きたとしても、自分には何ら関係ないことではあるが。






 部屋に戻ってみたら、真っ黒いのがベッドの上に寝転がっていた。


(……ほんとに寝てました)


 剣はベッドのすぐ近くに置いてあるが、こんなに無防備に眠っているユーリを見るのは珍しいことだ。野宿をしていても宿をとっても、誰かの気配を感じるとすぐに起きてしまう、と言っていた。旅をしていた時と違うから今はそこまで過敏になることはない、とユーリは前に言っていたが、それでもきっと、本当に安心して眠れることは少ないのだろう。


「ユーリ」


 そうっと近寄って、小さく声をかけてみる。返事はない。寝息もそのまま。どうやら本当に熟睡しているらしい。シーツの上に零れる黒い髪は、夕焼けの光を浴びて不思議な色に染まっていた。綺麗な黒い髪。前を歩く背中を見る度に揺れる黒髪は、エステルの憧れだった。別に自分の髪の色や質が嫌いな訳ではない。ただ、影があるのに酷く鮮やかな髪は綺麗で綺麗で仕方なかった。
 エステルはベッドの脇にしゃがんでユーリの寝顔を見つめていたが、暫くしてから、むう、と眉を寄せた。ユーリの休みは今日だけ。そろそろ帰る時間の筈だが、こんなにぐっすり眠っているのを起こして良いのだろうか。
 考えた結果、もう少しだけこのままにしておくことにした。それに、こんなに無防備な寝顔を見ることが出来るのは、きっととても珍しいこと。
 ……ユーリは、自分が髪を伸ばしていることに気付いているのだろうか。それが彼に憧れてのことだというのは、気付くだろうか。ユーリほどの髪の長さになるにはまだまだ時間がかかるけれど、胸元くらいになる頃には何か勘付くだろうか。


「…………う……あれ? ……エステル?」
「あ、ユーリ。起こしてしまいました?」
「……や、かなりぐっすり眠ってたような気がする」


 目を擦りながら起き上がったユーリは、窓の外を見て、思いのほか長く眠っていたことに気付いた。


「ごめんなさい。起こさなくては、とは思ったのですけど、とてもよく眠っていたもので……」
「良いよ、そこまで帰るのに時間かからないし。……ふああ、ハルルに来たってのに、昼寝で終わっちまったな」
「ゆっくり休めたのですから、良いではありませんか」


 町の出口まで送る間に、エステルは今日の子供達のことを思い出し、くすくす笑った。


「次は元気な時に来てくださいね。あの子達、ユーリと遊びたがっているんですから」
「だーから、オレはそういう肉体労働をしに来てるんじゃなくて」
「あの子達が遊んで欲しいのを知ってて、来ているのではないんです?」


 疲れるけれど、悪くもないと思っている癖に。
 口にはしなかったけれど、聡い彼には伝わる筈だ。その証拠に、ユーリは苦い顔をしてそっぽを向いた。






 宿に帰る頃にはあたりは暗くなっていた。部屋の明かりをつけると、大きく伸び。お腹も空いたし、夕食の支度をすることにしよう、とエステルは新しく買ったエプロンを取り出した。着ていた上着を脱いだところで、ベッドが視界に入る。薄いピンクのシーツのベッド。以前はベッドが二つある部屋を使っていたから、白いシーツのベッドで昼寝をしていたことはよくあったが、そういえばこのベッドでユーリが眠ったのは初めてだ。


(……ピンクのベッドで昼寝なんて、抵抗なかったんでしょうか)


 まあ、そういうの気にしない性格だろうけど。
 ところで、この枕の上についさっきまでユーリの頭があった訳で。
 数時間後には、このベッドで自分は寝る訳で。
 ……何だかもやりとしたものが心の中に沸いてきて、慌ててエステルは頭を抱えてぶんぶん首を横に振った。


(……って、何を考えているんですわたしは!? ユーリがお昼寝してたってだけじゃないですか!)


 そんなこと言ったら、この部屋のあらゆるものがユーリの触れたものではないか。
 シャワー借りる、とか言って使っていったこともあったし、石鹸だって使ったはずだ。勿論その石鹸はその後自分も使ったし、全て使い尽くして数日前に新しい石鹸を使い始めたところ。
 視界の端で踊る桃色の髪を一房摘まんで、はあ、とエステルは息をついた。何だか自分が、とても愚かな気がした。ユーリはきっと、全然そんなこと思ってない。全て自分の空回り。
 この髪がもう少し伸びたら、彼は何かに気付くのだろうか。
 はぐらかすのが上手な人だから、とっくに勘付かれているのかも知れないけれど。