「……それで、何です? 盛大に階段から転げ落ちたと?」


 時は流れ、ザーフィアスの下町。噴水広場に出来た小さな人だかりの中心には、三人と一匹。うち二人は地べたに正座して何とも言えない苦い顔、一人はむんと仁王立ちして二人の前に、一匹は仁王立ち少女の横で呆れたように欠伸。


「エステル。それはちょっと違う、これでも割と痛くないように落ちたし、子供も無事だった。しかも転げ落ちたってよりは、背中で滑ったって感触だ」
「でも結局階段を上から下までごっそり行きましたよね? 反省してください、罰として背中の痣は明日まで治療してあげません」
「あ、エステリーゼ様、私は鎧を着ていましたのでどこも怪我などしておりません。なのでその罰はユーリにしか適応されないかと」
「ではフレンは、ユーリにおいしい料理を作ってあげてください」
「おいこらオレへの罰になってるぞ」


 たまらずユーリが顔を上げると、エステルは鋭い目つきでこちらを見下ろしてきた。それがまた迫力があるものだから、彼はため息をつくしか出来なかった。そしてさらりと侮辱されたフレンは本当は反論したかったけれど、反論出来る雰囲気ではなかったので、後でユーリを三発くらい殴ろう、と決めて黙っておくことにする。
 下町にある大きくて長い階段。そこで子供達が遊んでいた。偶然その場に居たフレンと階段の上に居たユーリは、危ないからと子供達に注意しようとしていた。が、少し遅かった。一人の子供が足を滑らせて階段から落ちそうになるのを見付けたフレンが全速力で子供の手を取る、が今度はそのフレンがバランスを崩した。何やってんだとユーリが駆け寄るも鎧は存外重い。支えきれずそのまま階段の下まで三人一緒に転げ落ちたのだった。
 その時下町でラピードと共に買い物をしていたエステルが、騒ぎに駆け付けこの有様だ。


「あ、あの、お姉ちゃん……お兄ちゃん達、あたしを助けてくれたから……」
「確かにそれは喜ぶべきことです。でもそれだけじゃいけません。誰かを助けても、自分が怪我をしたら本当に助けたと言えないんです。心配するではありませんか」


 自分を犠牲として誰かを助けるなんてしないで欲しい――と言いたいところだが、完全に否定は出来ない。だが、否定出来ないからと言って受け入れている訳では決してない。この少女が助かっても、ユーリとフレンが怪我をしたら今度は自分が悲しむだけだ。


「人のこと言えんのか」
「ユーリに言われたくはありません」
「本当に、人のこと、言えんのか?」


 一言一言を強調するように、低くもう一度言われ、エステルは表情を失った。心が凍り付いたようにきんと張りつめ、身体にある全ての力が胸に集中したように苦しくなる。
 その言葉が何を意味しているのか――考えたら気持ち悪くなりそうで、気付かれないように結んだ口の裏側で唇を噛んだ。そして何もなかったかのように視線を反らし、まだ心配そうにしている少女の頭を撫でた。


 ――言えますよ。


 呆れたように返してきたあの時の少女は、もうどこにも居ない。
 簡単に否定出来るものでは、なくなっていたからだ。
 険しい表情のままそれを見つめるユーリの横顔に、フレンは何かを言いかけ、けれどふるりとかぶりを振って俯いた。はたから見ればいつもと何ら変わりない表情だが、その瞳に鋭い色が宿っていることくらい、自分に分からない訳がなかった。
 何でも分け合った二人だからこそ、知りたくない、知られたくない内面まで掘り起こしてしまうことが、この時ばかりは疎ましく思えてしまった。








「さっきのはどういう意味だい、ユーリ」


 そうこうしているうちに、日が沈んできてしまった。この子をおうちまで送っていきます、と言ったエステルが噴水広場から去っていった。同時にばらけた人だかり。静かに立ち上がったフレンは、まだ横で座ったままの(とは言ってももう正座ではなかった)ユーリを見下ろした。


「人のこと言えんのか、って意味だよ。今更聞くようなことでも、」
「僕が言っているのはそんなことじゃない、というのも、今更言うようなことでもないだろう」


 お前だって自分を犠牲にして誰かを助けようと何度も思ってきた筈だ。
 ……こんなことを彼女に伝える為に、彼はあの言葉を言った訳ではないだろう。
 お前は自分が傷付いて誰かが悲しむって、本当に分かってるのか。
 ……きっと彼は、こう言いたかったのだろう。


「意味なんて分かってる癖してよく言うよ」


 ユーリは苦笑気味に笑うと立ち上がり、服を軽くはたいた。








「それじゃあ。明日遊ぶ時には、周りをよく見て遊んでくださいね」


 少女の家の前まで辿り着き、手を離す。夕焼けは街並みの向こうに消えかけていて、足から伸びる影はすらりと長い。少女を家の中へと促したエステルは、どこか心配そうな顔で自分をじっと見つめる少女の瞳に気付き、首を傾げた。


「どうしたんです? ……どこか、痛むところ、ありますか?」
「ううん。違うの。お姉ちゃん……怪我、してるから」


 少女の目線が腕に移る。二の腕に出来た大きな青痣だ。エステルはそこを手で押さえ、恥ずかしそうに俯いた。


「こ、これはですね……ええと、自業自得、と言いますか。高いところにあったものを無理矢理取ろうとしたら、余計なものまで落としてしまいまして」
「ぶつけちゃったの?」
「まあ……そういうことです。大丈夫ですよ、そのうち治りますから」


 派手な痣ではあるが、大分痛みも引いてきている。そう心配するようなものでもないので軽く笑ってみせたが、少女はふるふると首を横に振った。


「何で? だって、分かんないよ。お姉ちゃん、あたしが怪我をしたら悲しんでくれたのに、どうしてお姉ちゃんが怪我しても、お姉ちゃん笑ってるの?」
「……これは、わたしの不注意で、」
「でも怪我しちゃったんだよ。あたしだって、周り見てないから落ちちゃったんだよ。お兄ちゃんだって、心配して着いてきちゃったんだから!」


 びしっ、と効果音がつきそうなほどぴしりとした角度で、少女が通りの向こうを指差す。まさかと思ってそちらを向いたら、暗闇の中で動く黒を発見する。視線に気付いたユーリは、悪びれもせず呑気にひらりと手を振ったので、このストーカー、と突っ込むことも忘れた。