御剣の階梯後の捏造です。













 帰る場所は、守られた。








桃色スピカ








「はい、おしまい」


 きゅ、と包帯を結び、ジュディスはその結び目をぽんと軽く叩いた。ユーリは包帯の巻かれた右腕を軽く動かしたり伸ばしたり曲げたり、と具合を見てから、頷いた。


「ん、よし。さんきゅ、ジュディ」
「良いのよ。貴方の我が儘に付き合っただけだもの」


 救急箱の蓋を閉めて、ジュディスは瞳を細めて笑う。その横顔を見て、ユーリは思わず顔を背けた。


「おっさんに傷治されても、なんか悲しくなるし。どうせおっさん、『野郎に愛してるなんて言いたくないわー』、とか言うに決まってる」
「それでも治してくれるとは思うけど……だったらカロルはどうなの?」
「床が抜けたらどうすんだよ」


 エステル以外に怪我の治療を頼むとしたらレイヴンとカロルだったが、どちらも問題がある(個人的な問題も含まれているが)。そんな訳で、怪我の治療はジュディスがすることになった。
 先に怪我の治療を施されたエステルは、隣の部屋のベッドで眠っている。いつ目覚めるか、とリタがつきっきりで看病しているが、大した怪我でもなく単に気を失っただけだから、そのうち嫌でも目を覚ますだろう。


「……良いの?」
「何が?」
「行かなくて」


 どこに、とは言わなかった。だがなぜだろうか、彼女との会話には多くの言葉は必要ではなかった。奥底に似通った部分でもあるのだろうか――ジュディスの全てを見透かすような瞳も口調も、時に自分の内面に踏み込まれたような錯覚を覚えるのに不快感は全くなかった。


「知ってるだろ、さっきリタにこっぴどく叱られたの。今行ったら、オレ確実に黒こげにされるぜ?」
「大丈夫。黒こげになったら、また私が手当てするから。手遅れだろうけど」
「…………その笑顔で言うのやめろよ、リアルだから」


 しかしながら毎度発言が際どいので、ユーリは頬を引きつらせた。くすくすと女が笑う度、青い髪が揺れる。


「ところでユーリ。私、貴方の我が儘に付き合ったって言ったわよね」


 笑いながら言われた言葉に、ユーリは目を細めた。意味ありげに笑うジュディスを見つめ、すぐに彼女の意図を理解する。


「……ああ、何でお返しすれば満足?」
「そうね。私、ちょっと調べたいことがあるんだけど、一人だと大変なの。だからリタを呼んできてくれないかしら」


 つまり、そういうこと。
 全く気の利く女である。


「りょーかい。お安い御用です」


 一人だと大変なのは、二人きりにさせるという作業のこと。






 全身の力を失って、重力を取り戻した少女が降ってきた。ユーリは思わず剣を放り投げて両手を伸ばす。力ない両腕が広がってまるで自分に飛び込んでくるかのように見えてしまって、自分の脳は本当におめでたい、と心の隅で思った。
 必死で腕を伸ばして抱きとめたのにのしかかる重力に負けてバランスが崩れた。どたりと背から転がって一瞬息が詰まったが、一瞬後には忘れていた。目の前に広がる空と、視界の端で風に揺れる桃色の髪。背中に緩く回したままの腕に少しばかり力を込めて、彼は瞳を閉じた。小さく息を吸い、掠れたような声で囁く。


「……おかえり」


 身体の上の存在が、その言葉に震えた。嗚咽混じりの吐息が懐かしくて、彼女が泣いているのは悲しいのにもっと聞いていたいと思ってしまった。小さな手の温もりが衣服越しに伝わる。翡翠の瞳から零れた涙は黒い衣服に吸い込まれ、黒を更に濃くさせる。


「……ただいま」


 上手く声にならないような声だったが、確かに自分の耳に伝わり、全身を巡った。


「ただいま」


 もう一度、今度はしっかり聞こえるように。
 ああ。
 こんな幸せがまだあるなんて、知らなかった。
 思ったら急激に視界が滲んで、エステルはユーリの胸に頬を押しつけ、衣服をぎゅうと掴んで、声を上げて泣き出した。
 すっかり身体を起こすタイミングを失ってしまったユーリは、仰向けになったまま、さてどうするか、と考える。しかしどうして仲間達は何も言わないのか。思って顔を動かしてみたら、カロルは嬉しそうににこにこしながら何度も頷いていて、ジュディスは幸せそうにこちらを見ていて、ラピードは大人しく座っていたし、顔を真っ赤にして泣いているリタをレイヴンがおーよしよしとか言いながら頭を叩いて慰めていた。
 何なんだこいつら。
 ユーリは少し呆れたが、この瞬間があることに感謝した。


「エステル。ほら、泣くなって。お前が泣きやまねえと、リタはずーっと泣きっぱなしだぞ」
「な、なによぅっ、あたしはっ……う、うえええぇ」


 普段のリタなら必死で泣くのを我慢するだろうに、今回ばかりは無理だったらしい。エステルはゆっくりと身体を起こし、そんなリタを見て優しく笑った。涙は止まらなかったけれど。


「……みんな。ただいま」


 その言葉に彼等は一様に笑い、そして最初に打ち合わせていた訳でもないのに声を揃えて言葉を返した。


「おかえり」


 わん、とその中に犬の鳴き声が入っていたけれど、意味は同じ。