あれからエステルは今までの疲労もあってか、ひたすらに眠り続けている。とは言っても、まだ三十分ほどしか経っていないが。
 黒こげにされる――とは分かっていても、自然そちらに足は向いてしまう。かつかつと響く足音が心地よく耳を震わせた。すっかり静けさを取り戻した城は、今は夕日に煌めくオレンジ。
 まるで違うところにきたみたいだな――この城に来る度に思う。エステルと出会ったあの日は脱獄で、ついさっきまでは彼女を取り戻すためにここに乗り込み、今は明日へ向けての休息を得る場所。
 ユーリはエステルの部屋の前で一つ深呼吸をして、これからの行動を少し考えた。布や本を使った打撃技で来るのならよし、術が来たら諦める。炎の術だけは来ないことを祈ることにした。そんなもの使われたら、そこらじゅう火の海だ。


(……術なら水にしてくれよ、リタ。一番被害が少ない)


 少女の部屋に入る、それだけの行為なのに様々なことを考えている自分が馬鹿らしくなってくるが、用心するにこしたことはない。大事になったらフレンとかデコボコ達がうまくやってくれることを祈ろう。しまった、祈りが二つに増えた。……まあいいか。


「……よし。腹決めた」


 冷や汗が出てきそうになっているのは気のせいだと思うことにした。何だこの情けなさ。
 拳にした右手を上げてノックしようとした、その時だった。
 勢いよく目の前の扉が開いた。既にノックのために扉へ向かっていた扉は、すかりと宙を擦り抜けた。拍子抜けしてユーリが目を瞬かせると同時に、腹のあたりに何かが飛び込んできた。否、飛び込んできたのではなく、部屋の中から出てきて突進してきただけだった。どん、と表現するには少し軽いくらいに鈍い音がした。突然のことに受け身がとれず、ユーリはそのまま背から床に転倒。突進してきた茶髪の少女はユーリを見下ろし驚いたようにしたが、やがて真顔になって片手を振り上げ、


「や、悪かった」


とか早口で言って、廊下を全力疾走して行ってしまった。


「ユーリ、あの、へ、平気です? 凄い音が……」


 追うようにして出てきたエステルは、おろおろしながらユーリに手を差し伸べる。頬にある絆創膏は、二人が戦った時の切り傷だった。


「……おい、今オレのよく知る奴が突進してきたんだが、あれは何だ、オレの気のせいか?」
「いえ、あの……す、すいません……わたしの目が覚めたのをみんなに知らせてくるって、行っちゃったんです」


 簡素な服に身を包んだエステルは、思ったよりも元気そうだった。今までの負担もあるだろうから大分疲れているんじゃないか、と思っていたのだが、杞憂に終わったようだ。
 差し伸べられた手を取って立ち上がると、参ったな、とユーリは心の中で眉を寄せた。折角ジュディスが気を利かせてくれたというのに、肝心のリタが自分の話を聞かず出て行ってしまってはどうしようもない。しかも、みんなに知らせてくる、とは。自分の覚悟もジュディスの気遣いも、全て水の泡。


「エステル。身体は平気か?」
「はい。まだ少し頭が重たいような気がしますけど……すぐに治ると思います」
「そうか。でもまだゆっくりしてろ。これからカロル達が大喜びで押し掛けてくるだろうから、体力温存しとかねえともたないぞ」


 エステルは、わたしは大丈夫です、と反論しようとでもしたのか、眉を吊り上げこちらを見上げたが、すぐに俯いて、そうですね、と答えた。今は自分の体調を考えるべきだと悟ったのだろう。多少の無理なら良いが、無理をしすぎると自分だけでなく他人に迷惑をかけることを知った彼女は、以前よりも強くなった気がする。


「……わたし、まだユーリにお礼言ってなかったですよね。ありがとうございました」
「……何の話だ?」
「わたしのこと、また助けてくれました」


 ベッドに潜り上半身を起こしたエステルは、桃色の髪を揺らして笑った。


「前に言いましたよね。もしもユーリがわたしに刃を向けるなら、わたしが悪いんだって。本当は、悲しくて、辛くて、嫌だったけど……でも、何だか嬉しくて。おかしいです?」


 彼と戦うことは嫌だったし、殺して欲しかったけど死ぬのは怖かった。
 それでも、彼が自分に刃を向けた時、やっぱりこの人は真っすぐで強い人だ、と尊敬の思いを強く抱いた。
 当の本人は、窓際の壁に寄り掛かり、腕を組んで自分の話を聞いていた。そして苦笑気味に笑う。


「おかしいか、と言われれば、まあおかしいとは思うな。オレはお前を殺す覚悟もあったんだぜ?」
「でもやっぱり、ユーリが選んだ道は間違ってないと思います。それにわたしはもう大丈夫なんです。それで、良いんです。わたしだってユーリに刃を向けました」


 後悔はたくさんあったし、夜が明けるまで謝りたい。
 でも、今この時、そんなことは必要なかった。
 後悔なら後で一人ですれば良い。謝るのはまた今度で良い。今は、彼女が戻ってきた、そのことを喜びたかった。
 ユーリは壁から背を離すとベッドに腰を下ろし、エステルの髪にそっと触れる。くすぐったそうに彼女が笑ったから、力任せにぐしゃぐしゃと掻き回した。きゃあっとエステルが高い笑い声をあげる。手を離したら、俯いたエステルが何か考えているような顔をしたので、どうしたのかと声をかけようとしたら、その頭がぽすりと胸に落ちてきた。


「……本当に、ありがとう。早くみんなにも言いたい」


 ありがとう、ありがとう、ありがとう。
 何度言っても言い足りない。
 わたしの居場所を作ってくれた人達。


「もうちょいの辛抱だ。それまではオレで我慢しててくれ」
「ユーリにだって、ずーっとありがとうって言ってたいです」


 ユーリはあやすように彼女の頭を撫で、ぼんやりと部屋を見渡した。そういえば、この部屋に入るのは初めてだった。大きなベッドや大きなドレッサー、大きな本棚。まあ、予想していた通りの部屋だが、彼女らしいといえば彼女らしい。
 あの時は、ただ城から抜け出したいだけで。
 魔導器を取り戻したいだけで。
 なのに世界を巡り、こんなことになって。
 でも、一つも後悔していない。


「……エステル」
「は、……はい?」


 返事は少し涙声だった。あやすように頭を撫でながら、彼は続けた。


「お前、胸、前より小さくなってないか」


 喉を鳴らしてエステルが息を吸った。そして、先程ユーリとリタがぶつかった鈍い音よりももっと大きな音が、ごっ、と部屋に響いた。青年の顎に少女の右アッパーが見事に直撃。顎への衝撃に頭がぐらりとし、盛大にベッドから転げ落ちたユーリを見て、エステルは顔を真っ赤にしながら怒鳴る。


「な、何言うんです! わたし気にしてるのに! ジュディスのは揺れてるのにわたしなんて全然で、気にしてるのにっ!」
「おい、誰がジュディと比べて、なんて言った」
「言ってなくてもそういうことです! ……うう、やっぱり男の人って、あるほうが喜びますよね……」


 ため息をついて両手で顔を覆ったエステルは、がっくりとベッドの上で項垂れた。


「うー、いってえ……冗談だ、冗談。そんだけ元気がありゃ平気だな」


 まだじんじんする顎を押さえつつユーリがゆっくりと立ち上がる。まだ起こっているような目つきのエステルを見て、ユーリは右手を差し出した。


「ほれ」
「……?」
「これからも、よろしくって意味」


 花火が舞い散るあの夜に、彼女が言った台詞だ。
 こんな汚れた手を握ってくれた、その優しさは今でも忘れない。


「……はい!」


 柔らかな右手が自分の右手に被さり、優しく握る。軽く揺するように上下に動かし、彼女は幸せそうに笑う。と、廊下の方からばたばたと騒がしい足音。


「エステル! 目が覚めたの!?」


 ノックもなしに部屋に飛び込んできたカロルは、手を握り合っている自分達を見て、あ、とばつが悪そうな顔をして、急いで部屋を出て扉を閉めた。


「ノックなしに部屋に入ってくるとは、失礼な奴だ。今のうちに礼儀ってもんを教えておかなくちゃな」
「ユーリ、人のこと言えませんよ」
「……ま、それもそうか」


 肩をすくめたユーリは、扉の向こうで頭を抱えているであろうカロルを呼びに扉へ向かう。その途中、彼はふと足を止め、ベッドの上で手櫛で髪を整えているエステルを振り返った。


「エステル。おかえり」


 エステルはぱちりと目を瞬かせ、それから幸せそうに微笑んで頷いた。


「ただいま、ユーリ」


 ここに舞い戻った、桃色の星。









 おかただ後、自由行動前にはこんなことがあればいいな、な妄想。
 PTのみんなが仲良しなら何でもいいです。