――二時間五十分前――
正直、あんなに怒ると思わなかった。
「な、ラピード。女性心理は難しいもんだなあ」
噴水に腰掛けて、足下に座る相棒に言ってみる。が、くあ、と欠伸されただけだった。
「チョコレートの一欠片で立て籠もり事件とは思わんかった。つーかあそこまで怒るか、……いや……怒るか」
以前自分がしたことを振り返り、ユーリは苦笑いした。以前作ったフルーツパフェの林檎を食べられ、エステルをグーで殴った過去だ。あれは大人げないことをした。が、つまりエステルの心情はこういうことだ。
食べ物の恨みは恐ろしい。あほらしいけど、恐ろしい。
「ラピード。オレ、変わった?」
変わらない、と言ったのは、フレンだったか。
君は変わらない、と、彼も又変わらない笑顔と声で言ったけれど。
恋を知ったんだ。
好きになったり、愛したり、狂っちまうくらいに危ない気持ちを知ったんだ。
「……不思議なもんだなあ。怒ってる顔も見たいとか思うなんて。オレってそういう趣味あったらしいぞ」
身体の両脇に手をついて、上半身を反るようにして空を見上げた。結界に守られた町から見上げる空は高く澄んでいる。
笑ってる顔が一番いいけど、怒ったり泣いたり拗ねたりするのも見たいんだ。
嫌いになられるのは怖いけど、その一歩手前まで虐めてみたいとか。
ああ、おかしい。
「……ちょっと。何一人で笑ってんの。きもい」
くつくつと笑っていたら、脇から冷ややかなリタの声。その後ろには、片耳を押さえたレイヴン。
「おい。何でおっさんまで居るんだ」
「あたしとエステルの会話、盗み聞きしてやがったのよ、こいつ。趣味悪い」
「やあね、大人の楽しみよ。それに聞かなかったって言ったでしょ」
「そんなデリカシーのない大人はひとっつも見習いたくないわ。聞かなかったんじゃなくて、聞こえなかったってだけなんでしょ、どうせ」
リタは決してレイヴンと目を合わせようとはしなかった。あの、じとりとした目付きのまま。
「で? どうだった?」
「どうだった、って……あんたねえ……」
一言言ってやろうかとリタは口を開け、しかしぱくんと口を閉じ、そのまま背を向けた。
「やーめた。付き合いきれない。あんな変な喧嘩の原因に振り回されるのごめんだし」
それだけ言うとすたすた歩いていってしまった。レイヴンは意外そうに目を瞬かせ、
「あら珍しい。てっきり罵声が飛ぶと思ったのに」
ユーリは肩をすくめてラピードと目配せする。相棒も同じことを思っていたらしく、煙管を揺らして小さく鼻を鳴らした。
お菓子で振り回されたくない。それも本心だろうが、リタはこれ以上自分が首を突っ込んでも仕方ないと判断したのだろう。そして自分に向かって怒鳴ってこなかったということは、エステルはもうそんなに怒っていないということ。
――二十分前――
赤い光が窓から差し込んできた。もうそんな時間になるのかと、エステルはぼんやりと外を見つめた。窓の向こうからは良い香り。下の酒場で食事を作っているのだろう。今日は下町で休んで、明日出発。これは最初から決まっていたことなので、ここに自分が立て籠もっていても旅立ちに支障はないだろう。
ベッドに放り投げていたチョコレートの箱を開けて、一欠片口に含む。口の中で溶けていくチョコレートはみるみるなくなり、甘ったるい味を残していく。
ぼんやりと部屋を見渡す。丸い小さな机。壁にかかった一降りの剣。そして今頃になって気付いたが、ベッドにかけられていた服。何となく手を伸ばしてみたら、やっぱり大きかった。
背が高くて。
細くて。
逞しくて。
綺麗で。
その服を抱いて、エステルはぽすりとベッドに横になった。
「…………、ばか……」
こんな思いをしたかったんじゃない。
こんなに怒るつもりなんて、なかった。
でも一度怒ってしまったら、引くに引けなくなってしまった。
それだけだ。
なのに。
横向きの世界が滲んだ。零れた涙がシーツに吸い込まれていく。
「………………ばか」
もう一度、呟く。
彼に対してか、自分に対してか、それとも他の誰かへか。
呟いたエステル自身、分からなかった。
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