ねえ、その居場所はオレのものだよ。








ラビットプレイス








 下町の宿にある青年の部屋に、立て籠もっている人物が居た。
 むすうっとした顔の立て籠もり犯は、ベッドの上を陣取ってそこから動こうとしない。がらんとした殺風景な部屋をすり抜けていく風は緩やかで優しい。この部屋に一人立て籠もり続けてから、そろそろ三時間。






 ――三時間十分前――


「もういいです! ユーリなんて知りません、お豆腐の角に頭ぶつけて泣いちゃえ、です!」


 とっても奇妙な捨て台詞が甲高い声で響いた。本当ならば、『泣いてしまえ』の部分は『死んでしまえ』という文句なのだろうが、死ねというのはあんまりだと思ったのだろう。しかしだからって、泣けとは。何とも決まらない言葉になってしまったものだ。
 喧嘩をした。原因とかいきさつとかは重要なことではない。喧嘩をした。それがたったひとつ重要なことであった。捨て台詞を吐いて踵を返した少女は、てっきり宿の階段を下りていくものだと思ったのだが、甘かった。エステルの手は捨て台詞をぶつけた相手、つまりユーリの部屋の部屋を開け、ばん、と勢いよく閉めたのだった。


「…………何で、オレの部屋……?」


 捨て台詞もだが、この行動も理解不能である。ユーリは閉められた扉を呆然と見つめ、それから呆れたように息をついた。
 だって、何で怒りの矛先を向けた相手の部屋に立て籠もるんだ。おかしい。何かおかしい。しかしその効果は絶大なものである。何と言っても、自分の部屋なのに入れない。
 この扉を開けてずかずか侵入するのは容易いことなのだが、どうもし辛い。




 ――三時間前――


「エステル。居るんでしょ。入るわよ」


 こつこつと扉をノックしてから、リタは立て籠もり犯の居る部屋に足を踏み入れた。ベッドの上に座る桃色の髪の少女は、リタの顔を見て瞳を輝かせた。


「あ、リタ」
「何やってんの? ユーリの部屋に立て籠もるなんて」
「……ユーリが酷いことしたからです。喧嘩です」


 輝いていた瞳は一気に怒りの色になり、拗ねたようにぷいと顔を逸らした。この時リタは一瞬ユーリざまあみろと思ったが、これからの旅に支障が出るのは嫌だった。


「喧嘩、って……あいつ、全然喧嘩してる様子じゃなかったけど」
「ユーリはそうでも、わたしは喧嘩したんですよ。ユーリが謝るまで、わたしここから動きません」


 リタはエステルの頑なな様子にため息をついて、少し前のことを思い出した。
 下町に立ち寄った一行は、一休みとして自由時間をとっていた。
 水道魔導器が正常に動いているか調べていたリタは、何やらもめているような声を耳にして顔を上げた。宿の方に向かって呆れたように歩くユーリと、その後ろで不服そうな顔をしながらいつもより高い声で何か言っているエステルだ。また何か言い争っているのかと思ってリタは気に留めず噴水に向き直ったのだが、気付いたら脇にユーリが立っていた。


『悪いリタ。ちょっとオレの部屋言って、お姫様のご機嫌伺ってきてくれないか』
『……何、喧嘩でもしたの? さっきエステル、怒ってたみたいだけど』
『何だ見てたのか。なら話は早い。何か、泣いちまえ、とか怒鳴られて部屋に立て籠もったんだ。このまんまじゃしょうがないから、行ってきてくれ』


 何であたしが、と言おうとした所で、リタは少し違和感を感じた。
 どうして自分で行こうとしないのか。
 ユーリの性格を考えれば、強引に部屋に入ったりもすると思うのに。


『……ははーん。つまりあんた、エステルに何かうしろめたいことがあるってことか』
『大人の考えに首を突っ込むな』
『何が大人よ。ま、でも確かに……き、気にはなるし、ね』


 心配だ、とは恥ずかしくて言えなかった。そんなこんなで部屋に来てみたらこれだ。


「あのね。……えーと。何であんた達、喧嘩したの」


 色々と愚痴を言わせればすっきりしてくれるかも知れない。思ったリタは、ベッドに腰掛けて訊いてみる。エステルは、聞いてください、と眉をつり上げた。


「さっきユーリとお買い物をしていたんです。で、その時にチョコレートを買ったんです」
「…………………………、…………」
「……え、何です、リタ」
「……あー……良い。続けて」


 何か嫌な予感がしてきた。どうしよう。あたしの予想、当たってませんように。
 しかし現実はとことん厳しかった。


「わたし、一番に食べようって思ってたんです。そしたらユーリ、食べちゃったんですよ!? 酷いでしょう、わたしが食べたくて買ったのに、わたしより先に食べたんです! 確かにあげるつもりだったけど、でも先に食べるなんてあんまりです!」


『おい待て、だったらいつ食っても一緒だろ? 分かった、あとで同じの買っといてやるから』
『そうじゃありません、最初に食べて美味しいって思うからこそなんです!』
『はいはい、じゃあ違うチョコ買ってやる』
『あのチョコが食べたかったんです! ……もう、いいです。もういいです! ユーリなんて知りません、お豆腐の角に頭ぶつけて泣いちゃえ、です!』


 ……何という脳天気な喧嘩。いや、彼女にとっては大問題か。


「うん、……話は、分かった。じゃ、あたしユーリのとこ戻って伝えてくる」
「え?」
「あいつが様子見に行けって言ってきたのよ。ってことは、あいつだって悪かったって思ってるってこと。それとも、エステルも一緒に来る?」


 む、とエステルは口を噤んで考えた。
 ユーリは、反省している。
 でも、自分で来ないでリタを使った。


「……行きません。ユーリがちゃんと謝るまで、ここに居ます」
「……そ。ま、いいけど」
「リタ」


 ベッドから立ち上がったリタは、エステルの声に振り向いた。少し困ったような顔をしていた彼女は、ぽつりと言った。


「ごめん、なさい……」
「……何で謝ってんの。エステルはちょっとくらい、我が儘言った方が良いの」


 特にあいつには。
 心の中でそう言ってから、リタは部屋を出た。と、廊下にはレイヴンが立っていた。リタが不審そうな目つきで男を見上げると、いやあ、と彼はばつの悪そうな笑みを浮かべて目線を反らした。


「青春してるみたいなのを見ちゃったからねえ。で、リタっちが説得しに行くようだったもんだから、おっさんちょっと興味が」
「覗きかおっさん。いっぺん階段から落ちる?」
「いや、でも聞かなかったよ。聞かなかったから……いーたたたた! ちょっと、リタっち痛い! ねえ! おっさんこれでもデリケートなんだから、優しく扱って!?」


 リタはレイヴンの耳たぶをぎゅうと引っ張り、そのまま階段を降りる。悲鳴を上げながら引き摺られてくる男の声には耳を貸さない。