宿の階段をのぼりながら、エステルはぺこぺこの腹をさすって、今日のお夕飯は何かしら、と表情を綻ばせた。ユーリの作る料理はおいしい。期待外れの品を出したことは一度もない。絵本を片手に部屋の扉を開けたエステルは、夕焼けの赤い光が差し込む空間に足を踏み入れた。


「ただいま帰りました、ユーリ。今日のお夕飯……、?」


 二つ並んだベッドの一つ、いつも彼が使う方のベッドに、夕焼けに照らされた青年の身体があった。仰向けになって、片腕で目元を覆う姿で。


「ユーリ? ……どうしたんです? 具合でも、悪いですか?」
「いや……そうじゃない。……悪い。暫くすれば、平気だから」
「と言うことは、元気じゃない、ってことですよ」


 肩を竦めてエステルがユーリに近付こうと、絵本を胸に抱いたままベッドへ歩み寄る。と。


「エステル。止まれ」


 仰向けになったまま低く言われ、反射的にエステルは足を止めた。


「……オレ、今酷え顔してっから。見られたくない」


 弱々しい声だった。余りこんな声色で話すことのない彼を見つめ、ふとエステルは彼の身体の横に一冊の本が置かれていることに気付いた。それは、旅を始めてから今までずっとつけていた日記だった。


「……わたしの日記……読んだんですね」


 その言葉に、軽蔑も怒りもなく、しかしユーリは腕で覆った目を震わせた。


「断らないで読んだ。……悪かった。女性心理、理解してないもんだからな」
「良いですよ。ユーリが忘れてしまったら、思い出して貰う為に見せようと思っていたんですから」


 絵本を机の上に置き、エステルは脇にあるベッドに腰かけた。ユーリには背を向ける格好。本当は彼の傍に行って髪を撫でて慰めたかったけれど――止まれ、と言われたら、それに従う。見せたくない部分は誰にでもあるし、ただこの空間に居ることが許されていることで充分だった。


「……どうして、だろうな。字を読むだけで、お前が言ってるように感じるんだ。なあ。お前は今も、幸せになっちゃいけないって思ってるか? 何かを求めちゃいけないって、思ってるのか?」
「――…………」
「オレがお前の幸せを望んだら、お前は不幸になるか?」
「……そんなこと…………ある訳ないです。ユーリのくれる幸せは、何でもわたしの幸せになるんです」


 そうしてエステルは唇を引き結ぶと、立ち上がってユーリの隣に膝をついた。彼は制止しなかった。ただ、ずっと腕で目元を覆っていた。その身体の向こうに転がる日記を見てから、エステルはゆっくり息を吸い込む。


「ユーリ。あの日記、どこまで読んだんです?」
「……ザウデに行く前、まで」
「そう……ですか。……ねえ、ユーリ。わたし、今、幸せなんですよ。幸せになっちゃいけないって思っても、今わたしは幸せで、幸せで、ほんとに、幸せなんです」


 その先に目を通していたら、貴方の目から涙は零れ落ちなかったのかしら。
 ただ悲観的になって自分を責めて、自分を慰めていたあの頃のわたしの思い。
 それだけじゃなくて、先を見つめて希望を持つことが出来たわたしの思い。
 それを貴方が読んだなら、ねえ、貴方の心は痛まなかったかしら?


「貴方を幸せにすることが出来ないかもって思っても、それでも、貴方のくれる幸せを、こんなに欲しているんです」


 好きになったことを後悔したって、この気持ちを消し去ることなんて出来ない。
 恐れるほどに愛してしまった、この気持ちには、勝てない。
 エステルはそうっと手を動かして、今も目元を覆う腕の先にある手を握った。そうしてその手を自分の頬に当てる。触れた柔らかな頬は暖かいのに涙で濡れていた。
 泣き虫。
 そう思った途端、外気に触れた自分の目がまた滲んで、零れた。




  わたし、やっぱりみんなと一緒に居たい。
  ユーリと、幸せになりたい。




 それはハルルに住むようになってからも続けられていた日記の一文。


「……それが偽りでも、それがユーリのくれる幸せなら、全部本当になるんです」


 その言葉を、ユーリはまだ、知らない。