いつの間にか、彼女の日記は床に転がっていた。臙脂色の日記は暗闇の中、真っ黒な自分の上着に埋もれていた。ベッドからもぞもぞ手を伸ばして手探りでそれを拾うと、腹這いになってそれを捲った。また苦しみに耐えられなくなって泣くかも知れなかったが、彼女の気持ちを知らないで通り過ぎることが出来るほど自分は賢くないし、器用でもないし、女性心理が分かる訳でもなかった。
そうしてようやく、彼女が今幸せを願っていること、生きていることを誇りに思っていること、そして自分のことを愛してくれていることを知って、彼は無意識に安堵の息をつく。しかしながらこの少女は、本当に何かあったらこの日記を自分に見せるつもりだったのか。読んでいてこっちが恥ずかしい。ていうか、オレのこと観察しすぎこいつ。
「……何が、幸せになりたい、だ」
猫のように身体を丸めて眠る少女の鼻を指先で摘まむ。いつか寝ているふりをしていた時、こんなことをされたっけ。
もう日記を読む必要はないだろう。彼女の気持ちはもう分かった。そしてこれ以上は、彼女と触れて理解していけば良い。
「なあ――エステル」
静かに眠る少女は夢の中。
「オレでも、お前のこと少しは幸せに出来たりするか?」
不確定なことを話題に出すのは好きではないけれど、こんな望みくらい。
「はい、絶対」
幸せそうな声と共に、鼻を摘まんでいた手が取られた。
「ユーリはずるいです。どうしてそんな意地悪なことばっかり言うんですか」
「意地悪だった?」
「意地悪ですよ」
「そっか……そりゃ気付かなかった。今の発言で、意地悪に聞こえるようなものはひとつもなかった気がするんだが」
「わたしが寝てると思ったから言ったんでしょう? 何で面と向かって言ってくれないんですか」
「気持ちよさそうに寝てんのを起こしてまで言うことじゃねえだろうよ」
「言うことです」
そうかねえ、とユーリはベッドに仰向けになった。それでも手は触れたまま。天井を見上げていた黒い瞳が繋いだ手に移り、感触を確かめるように数回握った後、エステルの手をくるりと手のひらにおさめた。
「……ああ、お前って、小さいんだな。手」
「ユーリが大きいんです。わたしは人並みにありますよ」
くすくすとおかしそうに笑う声が、真夜中の部屋に弾けた。夕飯は結局食べていないけれど、空っぽだった身体はこんなにも暖かだ。
「ねえユーリ」
「ん」
「ユーリ」
「……何だよ」
それきりまた細かく笑うから、何なんだ、と思いつつも頬は緩んでしまう。可愛いな――と感じるけれど、口には出さない。そんなこと言う柄でもないし、別段言わなければならない言葉でもない。だって、彼女がどれほど可愛くてどれほど愛しいかなんて、わざわざ口にしなくたって良いことなのだから。
そんなに幸せそうに笑ってさ。
行動一つで、箍を外してさ。
煽ってるの?
「……オレも書こうかな、日記」
「続けられるんです?」
「エステルの観察日記なら、多分何年も続けられると思うぜ?」
でもきっと、書くまでもない。
彼女の行動の一つ一つは、文字にするより早く脳に焼き付くのだから。
ねえ、ユーリ。
わたし、本当に、幸せなんですよ?
それきりエステルの日記を読むことがなかったユーリは、この日の日記にこう書かれていたことを、一生知らないままだった。
エステルの日記を読んだユーリ、というネタが浮かんだら、重たいやらいちゃいちゃしてるやら、やりたい放題な結果になりました。