噛みしめた傷を癒してくれるのは、
触れる桃色の傷口
衣服の下にはベルトで固定したナイフがあった。武器を失い、盾も失った時、もしくは何も持たなかった時に敵に襲われた時のため、と、護身用に持っていたナイフだ。柄の部分には月を象った模様が彫られ、握りやすいよう自分の指の形に窪みが入っていた。
未だ戦うために鞘から抜いたことは一度もないが、手入れだけは怠らなかった。皆が寝静まった頃、エステルは宿のテラスに座って、月明かりの下、ナイフを取り出した。
町の光がナイフに宿り、ちかちかと眩しく反射する鋭い刃。砥石を持ち歩く訳にもいかないので、研磨剤が含まれた紙を使って磨く。ナイフと紙がこすれ合う音は、最初のうちは酷く不快だったが、慣れてみれば心地良いものに変わっていった。鞘から抜かない刃には血にも油にも触れないから、切れ味を保ち輝きを放たせることくらいしかない。
(…………ふしぎ)
剣の手入れは怠ったことはない。一休みする時間になると、ユーリは自分の剣を日の光に翳して刃具合を見ていた。そうしてくるりと剣を回して、鞘に入れる。その仕草がとても美しい曲線を描いていたから、エステルはいつしか休憩の時間が来ると必ずユーリの姿を暫く見るようになっていた。
ナイフの手入れを思い出したのは、それを見るようになってからだった。自分の剣の手入れはしっかりしていたのに、ナイフのことはすっかり忘れていたのだ。随分と鞘から抜いていないから錆びたりしていないかと思ったが、綺麗に光を反射するままで、切れ味も衰えていなかった。ほっとしたが、以来手入れは怠らないようになった。
ナイフも、剣も、盾も、自分の命を守ってくれるのに、どうしてナイフだけ忘れていたのだろう。自分の脳内からナイフの存在が一時期消えていたから――なのだろうが、それがどうしてなのか、という部分が、エステルには酷く不思議に思えた。自分のことなのに分からないことは、呆れるくらい沢山あった。
静かに鞘に刃を治めると、かちり、と音がした。簡単に鞘から刃が抜けてしまわないように、軽くロックがかかる仕組みになってる。そういえば、このナイフは今まで汚れたことがなかった。血にも、油にも、涙にも触れたことがない、綺麗なままの刃。
……ユーリはどうして、自分の腕を切ることが出来たんだろうか。
もう随分と遠い昔のことに思えるが、立ち上がる心すら失った自分の目の前で、彼はあの日、自らの腕を切った。今までは他人の、主に魔物の血で染まっていたあの剣は、自分の折れた心を染め上げる赤い血をその身に纏った。主人の手の中で踊る剣は、主人の血に濡れたのだった。
自分自身を傷付けることが、こんなに怖いとは知らなかった。
「……死ぬことを、望んだ筈だったのに。おかしいですね」
黒い鞘に指先を滑らせ、エステルは自嘲するように息をついた。あんなに殺して欲しいとせがんだのに、自分の身体に自分で傷を付けられないなんて、愚かで中途半端な覚悟だ。いや、だから殺して欲しいと願ったのだろう。自分で自分の命を終わらせるのが怖いから、誰かに終わらせてほしいと願ったのだろう。そうして終わるのであれば愛しいあの人の腕の中が良い、と、後のことを考えず都合の良い事ばかり考えていた。
「おい。何だ、その死人みてえな顔」
ぼんやりと膝の上に乗ったナイフを見つめていたら、脇からよく知る青年の声が聞こえてきた。隣の部屋のテラスに居たユーリは、テラスとテラスを隔てる柵に肘をついて、上半身を少しこちらに乗り出す。
「お前、夜な夜なナイフ磨いてるのか? 何だよそのホラーみたいなやり方。明るいところでやれよ、目も悪くするし、危ないぞ」
「ホラーって何ですか……静かな場所で磨いた方が落ち着くんです。ユーリこそ、寝なくても良いんですか?」
「ちょっと寝付けなくてな……ていうか、おっさんのいびきがうっさくて起きちまったんだよ」
目を細めて、ユーリが部屋の中を指差す。開かれた窓の向こうからは、耳を澄ませれば地響きのようないびき。カロルは起きないのかしら、とエステルは思ったが、多分彼はいびきを聞く前に深い眠りに落ちたのだろう。
「……そのナイフ、見たことないな。最近買ったのか?」
「いえ。護身用として、服の裏に隠しておいたんです。お手入れだけはしなくちゃと思って。何もない時でも自分の身を守るために……って」
自分の身を、守るために?
誰かのことは、守らなくったって良いの?
「……………………、……?」
不思議な気分になって、エステルは鞘におさまったままのナイフをじっと見つめた。ユーリは柵の向こうで怪訝そうな顔をしているが、口は噤んだままだった。
(このナイフは、あの時引き抜くべきではなかったのかしら?)
殺して、と、手を伸ばしてくれたこの人に告げた時。
わたしは泣くばかりで、誰かに終わらせて欲しいばかりで。
どうして自分で自分を終わらせようとしなかった?
そんなの簡単、自分を自分で消すのが怖いから、誰かに消して貰いたかった。
そして殺してと言いつつも殺されるのは嫌だから、結局剣を交えてしまって。
「……おい、エステル。お前、何考えてる」
「……え?」
色々考えてしまったら、柵の向こうにユーリが居たのをすっかり忘れていた。慌てて顔をあげたら、少し怒ったような目をしたユーリが、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あ、……何、って?」
「また、……だから。良く分かんねえけど。下らないこと」
「そう……でも、ないです」
下らない。自分の生きる意味だとか、死ぬ意味だとか、その存在だとか。それらを考えて悲観的になったり自分を責めたり、果てにあの時のことを思い出し、やっぱり死んだ方が良かったかと思うこと。それを下らないことと彼は表現しているのだ。
けれどエステルにとっては全く下らないことではなかった。ユーリの意味する下らないことが自分の考えていることに通じていると知っていても、エステルは否定するしか出来なかった。
それとも――自分で自分を傷付けるその感触を知ることが出来たら、下らないことになるだろうか。
「ユーリ。止めないでくださいね」
小さく告げて、エステルはナイフの柄を握った。ロックを外すと、かち、と微かな音と振動。鞘からナイフを抜いて、左手の人差し指にそうっと刃を当てる。
「……エステル」
「止めないで、くださいってば」
「違えよ。……お前、自分が傷付けば、全部解決するって思ってんのか?」
責めるでもなく、諭すでもなく、淡々とした口調だった。
「刃を当てるだけで震えてんのに、それで切るなんて出来んのかよ」
「……だって」
「ほんとに切る覚悟が出来てないのに、それで切ったって何になるんだよ」
「だって! ユーリは、自分の腕を切ったから!」
「だから? 何でお前が同じことするんだ? それでオレの気持ちを知ったとして、お前にどんな影響があるんだ」
影響なんて、ない。ただ、他にどうして良いか分からなかっただけだ。不安や辛さや愛おしさをどう出せば良いのか分からなかっただけだ。鼻の奥がつんとして、目の裏側が熱く滲んだ。指先が熱を持ったようにちりちりする。
「お前には――知って欲しく、ないんだ」
ユーリはひらりと柵を飛び越えるとエステルの前に膝をつき、転がっていた鞘を拾う。ナイフの柄を持つ震える手の上に手を置き、刃を鞘に納めた。柄から手を離させる。まだ震える手を握りしめ、彼は小さく続けた。
「自分を傷付ける感触なんて」
そんな役割、彼女は担うべきではない。
癒しの力を持つ彼女には、命を削る感触を覚えて欲しくない。
――は、と。エステルは小さく息をもらす。零れた涙は見ないふりをして、桃色の頭を引き寄せる。押し殺した泣き声が胸のあたりから聞こえてくるのを、一つも聞き逃さないようユーリは強く唇を噛んで目を閉じた。この泣き声の一つ一つを忘れないように、全ての神経を研ぎ澄ます。
何かを癒すことが出来ない自分に出来るのは、傷付けた者の苦しみを心に留めておくことだけのように感じていたのだった。
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