そうしてどれくらい経ったのか、その時の二人は時間の感覚が酷く曖昧だった。のろのろとエステルがユーリの胸から額を離したのが、ほんの数分の出来事のようで、けれどそれでいてもう何時間もこうして泣いていたような気もした。


「……オレも、まだまだ甘いんだな」
「……?」
「この期に及んで、お前が傷付いたり、何かを傷付けたりしなければ良いって思ってる」


 そんなこと出来る訳がない。それでも願ってしまうのは、自分の甘さ故だろう。


「……ユーリ」
「ん?」
「どうしてあの時、腕を切ったんです?」


 赤く腫れた瞳で見上げてきたエステルは、少し枯れた声で問うた。ユーリは彼女の隣に座り直し、夜空を見上げる。そうだな、と少し考えてから、答えを出した。


「言葉では納得させらんねえって思ったんだ。何てったって、言うより先に行動する派だからな……いや、違うな。納得させられるような言葉が一つもなかったってだけだ」


 どれだけ彼女を勇気づける言葉を並べても、立ち上がってくれないと何となく分かってしまった。彼女の力は毒になるばかりではないと、ちゃんと自覚させなければいけないと思った。理屈で通用するならば、最初から彼女はあの場にくずおれなかっただろう。


「……期待、してたかな」
「え?」
「オレが傷を負えば、必ず治してくれる。必ず叱ってくれる。治癒術を使わない訳がない。分かってたから、腕を切ったんだ。痛かったけど」
「痛いに決まってますよ。そんなの」
「そうだよ。痛いって、お前は知ってる。……それだけで、良いんだ。その痛みを知ることなんか、しなくたって良いんだ」


 人を屠ったのは、何もラゴウが初めてではなかった。
 騎士団に所属していた時、既に幾人かを手にかけていた。
 侮蔑した者を大人しくさせる。言葉にすればたったそれだけだが、実際は相手の言い分を聞かずその口を永遠に閉ざしただけだ。
 ……どうして自分はこんなことをしているんだろう、と思っても、人を切ったということを上手く処理出来ない頭では、どうして、なんて考えられなかった。
 この手が動くだけで人の命が消えて、そのうち人の命を奪ったということすら忘れてしまうのだろう。
 そう思った途端に襲ってきた、世界が引っ繰り返りそうな不快感と嗚咽。連日続いた悪夢に怯え、何日か眠れない日が続いた。
 そんな痛み、彼女には知って欲しくない。
 甘えだとしても、それだけは譲れなかった。


「……エステル」
「はい?」
「もう寝ろ。明日に響くぞ」
「ユーリの方がいっぱい休んでください」
「はいはい」


 少女の肩をぽんと肩を叩いてから、ユーリが立ち上がる。エステルは少し不安げな顔をしたままユーリを見上げたが、彼の瞳はこれ以上話を続けないようにと訴えるような色をしていたから、それ以上は何も言わなかった。
 ナイフを胸に抱いて、お休みなさい、と頭を下げる。足音を立てないように部屋に入るのを見届けると、ユーリはこちらのテラスに来た時と同じように、ひらりと柵を飛び越えた。


「…………参った、な」


 手のひらで目を覆って空を仰ぐ。
 幸せになんか、なってはいけないと思っていた。
 幸せになんか、なれないと感じていた。
 なのに彼女の声や瞳や髪が自分を震わせる度に、求めてしまう。
 こんな血に染まった手で、彼女を幸せになんて、出来る筈がないのに。


「ほんとに――甘いな」


 自分の罪を簡単に許して心の中に入ってくる彼女も。
 もう何も幸せに出来ない手でも彼女に触れたいと願う自分も。
 もつれ合って、壊れるしか、きっと道はないのに。









 ユーリの気持ちを理解したくて自分を切ろうとするエステル、というのがふっと頭に浮かんだので。
 幸せを望んじゃいけないのに望んでしまってぐらついてるユーリ、も書きたかったのでやったらどうにもアレな終わり方に……