気持ちは、知らない。








ストイックスター








 扉が開かれて、そろりそろり、忍び足で誰かが入ってくる気配。とうに暗くなった部屋のベッドで眠っていたユーリは、その気配に瞳を開かせるが、それが見知った人物であると分かるとすぐに目を閉じた。こんな夜中に部屋に来るのだからのっぴきならない事情があるのだろうが、なぜか今自分は凄く眠い。


「……ちょっと。ねえ、ちょっと。起きなさいよ、ユーリ」


 隣のベッドではカロルが、もう一つ向こうではレイヴンが眠っているからか、忍び込んで来た人物の声は控えめだった。ゆさゆさと肩を揺すられたが、もう目を開けることもしんどかったので、ユーリはきつく目をつぶって掛布を顔に引き寄せた。レイヴンの豪快ないびきが部屋に空しく響く。そのいびきに苛立ちを感じたのか、肩をゆさゆさ動かす手に力がこもった。完璧に八つ当たりである。気持ちは分からないでもないが。


「起きなさいってば。あんた起きてんでしょ、分かってんのよ、たぬき寝入りなんかしてないで起きてって!」


 やっぱり分かってた。それでもユーリは最後の抵抗とばかりに寝返りをうって背中を向ける。多分この時、ベッドの横に立っていた人物は頬をひくつかせた。見なくても気配で分かる。そして背中に殺気を感じたものだから、観念して身体を起こす。


「あら、惜しい。もうちょっとで見事な焼きユーリの完成だったのに」
「そんなもん完成させんな。人体食ったら何が起きるのか実験すんのか?」
「人体にはまだまだ不思議が詰まってるの。それも良いと思うけど、あんたあんまり美味しくなさそうだし……冗談よ、冗談。そんな冷めた目で見ないでよ」


 珍しく乗って来た少女を半眼で見つめてしまった。お前頭大丈夫か?、というような目をしていたに違いない。腕を組んでこちらを見つめる少女は、普段つけているゴーグルは勿論取り外し、衣服も簡素な夜着であった。こうして見ると、あんなに研究熱心で魔術にも長けているが結局はまだ子供の域にある女の子なんだな、と思う。


「本題。……つっても、あんたもう分かってるでしょ。あたしがここに来た理由」
「まあそりゃ、な。何が楽しくてお前が野郎共の部屋に忍び足で来んのか、ってとこ。こんな夜中に理由なしに来る訳がないしな」


 茶化すように遠まわしな発言をするユーリを見て、リタは思わず不愉快そうに眉を寄せる。が、すぐに気を取り直して何か言おうとして――けれど、口を閉ざした。そして、何を言おうか考えて考えて、少しだけ肩を落として、ユーリのベッドに腰を下ろした。その頃にはユーリの頭からはすっかり眠気が消えていて、全く現金だと自分で自分に呆れてしまった。結局自分は、あの少女のことになると自分のことはどうでも良くなってしまうらしい。


「……あの子、誰も見てないところで泣いてるの」
「知ってる」
「まだ分かってないんだから。迷惑をかけるのも、弱い部分見せるのも、悪いことでも枷でもないんだって、まだ分かってないんだから」


 吐き捨てるようにリタは言う。最初に出会った頃とは大違いだ。自分の感情にすら戸惑う少女が、こんなに他人のことを気にかける発言をすんなりするようになったのだから。それでも言った後に顔を真っ赤にして言い訳をしたりするけれど――根は素直なのだと誰もが知っているのだ。


「……違うよ。あいつは全部分かってるんだ。分かっていても、甘えることが出来ない。一度迷惑かけないようにって決めたら……それを軽減させるのは難しいんだよ」
「それがエステルなら尚更よ。……ていうか、あんた、知ってるなら何で」
「オレが介入して無理矢理甘えさせようったって、ありゃ直んねえよ」


 リタの言いたいことは分かる。辛いのを一人でどうにかしようとするな、いつでも明るくいようと努めるのはやめろ、そういうことだ。
 こんな旅だ。弱気になったりしたら、すぐに心が折れることは皆承知している。それでなくともエステルは辛いことを自分の中に溜めこみ、誰にも話さないままどうにかしようとしてしまう。仲間を信じていないから、何も話さないのではない。仲間を信じているから、悲しい思いをさせたくないのだ。


「ああ――それとも、怖かったのかも知れない」
「は?」
「あいつが泣いてるのを見るのが、怖いのかもな。……消えないんだよ、手から。あいつと戦った時の感覚が消えてくれないんだ」


 剣を持ち、戦ってきた左手。まめが出来て潰れて硬くなった手のひら。骨張った指。幾度も魔物を切り捨てた手の中に残る、殺してと泣く少女と戦った感覚は、あれから随分経ったけれど少しも消え去ってくれない。


「リタ。お前がオレだったら、エステルを斬る覚悟、出来たか」
「そんなのっ……出来る訳ないじゃない! そんなことして何になるっていうの、あの子が悲しんでみんな悲しんで世界が助かってなのに一つも嬉しくなくて!」


 眉を寄せて泣きそうな声でリタが捲し立てるように反論する。甲高い声に、ユーリは人差し指を彼女の顔の前に持って行く。はっとしてリタが口を噤んで部屋を見渡す。カロルもレイヴンも起きなかったようだ。


「オレだって嬉しくも楽しくもないよ。そんなんで世界を救ったって、お前にボコボコにされちまう」
「……当たり前でしょ。泣いて土下座したって許さない。あの子を泣かす奴は誰であろうと許すもんか」


 ふん、と鼻を鳴らして吐き捨てるように彼女は答える。すっかり丸くなったものだ。初めて会った頃のリタがどんなに無愛想だったか、何となくでしか思い出せないほど。真剣な眼差しに、ユーリは悪いと思いつつも込み上げる笑いを抑えられなかった。


「何よ、にやにやして。気持ち悪い」
「いいや。オレも負けてらんねえなあ、って」
「何のこと?」
「最大の壁をどう打破しようか、ってこと」


 やっぱり、最大の敵は少女に言い寄る男ではない。彼女であろう。少し肩をすくめて息を吐き出すと、ユーリはベッドの脇に立て掛けておいた剣を取る。


「んじゃ、お迎えに行ってくるとすっか」
「…………うん」
「リタは? 行かないのか」
「あたしが行っても、どうしようもないもの」


 膝の上でぎゅうと拳にして、その拳を見つめるように俯き、リタは掠れた声で続けた。


「分からないの。何て言えば笑ってくれて、何て言えば喜んでくれるのか。知らないもの。あたし、そんな人、今まで居なかった。あたしの名前、あんなに嬉しそうに呼んでくれる人、初めてだったの。……でも、あたし、何して良いか分からなくて。もどかしくて。だから、駄目。傷付けちゃう。……あたしだって、怖いのよ」


 花のように笑ってくれて。優しい声で、名を呼んで話してくれた。
 どんなに救われていたか、彼女が居なくなってから気付くなんて、愚かなことだ。
 幸せは失ってから気付く――よく聞く言葉が本当であると、体験して知った。


「……あいつは、お前に傷付くような言葉言われたり、辛い思いさせられたって、簡単には離れてくんないぜ?」
「知ってる、そんなの。あの子、嫌になるくらい優しいんだもの」
「だったら部屋に戻ってろ。ジュディが心配するぞ」
「わっ、ちょ……何すんの!」


 まだ俯いたままの少女の茶色い頭を手でぐしゃぐしゃと力任せに掻き回す。むくれっ面でこちらを見上げたリタの顔を見て、いつもの調子に戻ったな、と思うと、廊下へ続く扉へ向かう。


「心配ならな。名前、呼んでやれよ」
「え」
「エステル、って。喜ぶぞ」


 隣の寝室までリタを送り、開かれた扉を前に躊躇っている彼女の背中を押し、扉を閉める。廊下の窓からは、風に木々が擦れる音。