冷たい目、とあの女は笑っていた。
 もう遠い昔の話だが、最後に抱いた女は、最後にそんなことを言って笑った。
 騎士団に所属していた頃、良い所に連れて行ってやると同僚に連れて行かれた先でのことだった。あの時笑った女は、その皮肉めいた台詞とは裏腹に、とてもおかしそうな笑い方をしていた。
 ――いつか、ほんとに好きになった子、泣かしそうよね。
 誰かに恋心を抱いたことすらなかったユーリにとって、女の言葉は酷くふわふわと心の中に住み着いた。肝に銘じとくよ、とさらりと受け流したものの、泣かしてしまった場合どうすれば良いのか、という疑問は数日頭でぐるぐるしたものだ。
 結局身体を重ね合わせる行為にそう積極的でなかったユーリは、いつしかあの店に行くのをやめたのだが、あの女の言葉だけはずっと心に残っていた。
 泣かせても慰めれば良い。抱いて、あやして、腕におさめれば良い。
 酒に酔った騎士団の誰かが、自分の女に対してそんなことを言っていた。そんなこたないだろ、とユーリは少し離れた場所で酒を含みながら心の中でぼやいた。人を愛したことがないから分からないだけかも知れないが、慰めて終わる関係は何だか儚いと思えた。
 けれど。


 きっと自分の瞳は誰かを愛しても色を変えないで、冷たい目だと言われてしまうのだろう。






 徐々に意識がはっきりとしていく時間の流れの中、中々オレも未練がましいな、とユーリは天井に向かって口の端を僅かに吊り上げた。
 あの女を愛していた訳ではない。ましてや求めてもいない。ただ、あの空間にあの女が居て、自分が居て、あの空間があった。それだけだ。女にとってもあの行為は仕事であり、自分にとってもどこかで作業のようなものだったのだ。快楽があったのは事実だが、そこに幸福があったかと言えば、全く別の話だ。


「……ユーリ…………」


 小さく呟いたような、聞き慣れた少女の声に、ようやく右手が少女の手で包まれていたことを知る。ベッドの脇にちょこりと腰を下ろし、桃色の髪を揺らして心配そうな表情をしてこちらを見つめる。


「……傷の具合はどうです?」
「傷? ……ああ……そっか。お前、治してくれたのか。大丈夫だ、もう何ともない」
「そう、ですか。良かったです。……でも暫くは動かないでください。失った血までは取り戻せませんから」


 脳内にもやがかかったような感覚が残るのは、軽い貧血によるもののようだ。しかし彼女の顔色は余り優れないようだった。まさか、と思うが、期待はしたくなかった。


「……エステル。お前、休んでないだろ」
「だって……ユーリがわたしのせいで大怪我したのに、休むなんて出来ません」
「その前から足ぐらつかせてたのに、オレの怪我治すためにまた力使って? 何やってんだよ。いいから休め。オレはもう平気だから」
「平気じゃないですよ。何でわたしのこと庇ったりしたんです。何で怪我するんです。自分の腕を自分で切ったり、ほっとけない病だったり、何でそうやって……」


 全て自分のためだと分かっている。分かっているから、辛かった。果たして自分は、彼にそこまでされて良いような人間なのか。相応しくあろうと思えば思うほど、相応しい存在が何なのか分からなくなるのに。


「……もう……見たくないのに……」


 わたしのために、誰かが傷付くのを。


 揺らぐ瞳を閉じてベッドに頬を力なく埋めた少女が、限界を迎えて寝息を立て始めた。それでも手は離してくれなかった。
 血に染まった手なのに。
 手を伸ばしても、掴めなかった手なのに。
 どうして優しく包まれる権利があろうか。
 上半身を起こし、それでも無意識に左手で彼女の髪に触れようとして――けれど、出来なかった。
 こんなに光り輝く彼女に触れてしまったら、触れた場所から崩してしまいそうだった。






「ほんと、ばかじゃないの」


 一人戻ってきたリタは、エステルを隣のベッドに寝かせると、じとりとした目で言った。


「あんたも馬鹿だけど、エステルも馬鹿。なんつー無茶すんのよ、もう」
「一番びっくりしたのオレだぞ。すんげえ衰弱しきった顔してた」
「だったら何で寝かせないの!?」
「……壊しそうだったから」
「……は?」
「や、何でもね。こっちの話」


 エステルに看病させてやろう――とは決めたものの、リタはどうしてもエステルの身体が心配だった。なのでこっそり戻ってきてみたら、丁度エステルが眠った直後であった。丁度良いところに、とユーリは指を弾いたのだが、何が良いものか、とリタはユーリの頭に容赦なく拳固を振り落としたのだった。


「……リタ」
「あ……エステル。ごめん、起こした?」


 やがてベッドの中で目を覚ましたエステルは、ベッドに駆け寄ったリタにゆっくり首を横に振ると、いつもよりも力のない声で続けた。


「ユーリのこと、怒らないでください。わたしが約束破っちゃったからなんです。一人で無茶しないって。無茶したつもりはなかったんです。でも……みんなに迷惑をかけてしまいました」
「……そうよ。自分でも気付かないうちに無茶して。心配したんだから」
「はい。ごめんなさい。……絶交、されちゃいますね」


 悲しげに笑ったエステルを見て、う、とリタが口ごもり、ああ、とユーリがベッドの上であの時の会話を思い出す。
 絶対一人で無茶をしないこと。破ったら、絶交。
 そういえばリタはそんなことを言っていて――そしてエステルはそれを破って。
 あー、とか、うー、とか、返答に迷っているリタの後ろ姿が余りにおかしくて、ユーリがぷっと吹き出したら、本が飛んできた。ひょいと身を逸らすと、本が派手な音を立てて壁に激突。ごとん、と床に落ちた。


「……あ、あんただけが約束破ったんじゃないわよ。あたし達が、あんたに無茶して良いって決めたんだから。だから、エステルが一人で無茶したんじゃないの!」
「え……じゃあ、リタ、絶交しないでいてくれるんですか?」
「当然じゃな……っ、いいから! エステルはもう寝る!」
「わわっ、く、苦しいですリタっ」


 掛布を引っ張ってエステルの顔をすっぽり覆うと、掛布の中でもごもごとエステルが動く。すっかり和やかな雰囲気になって、ベッドの上であぐらをかいて様子を見ていたユーリは、膝の上に肘をついてほっと息をついた。


「リタ。もう落ち着いたか?」
「落ち着いたって何よ!」
「……悪い。ちょっと、エステルと話、させてくれ」


 掛布の上からリタに押さえつけられてもがいていたエステルが、ぴたりと停止した。リタも掛布から手を離し、ユーリの瞳を見据える。まさか泣かせたりするんじゃないでしょうね、と言おうとしているのは明らかだ。抑も自分がこんなことを言うこと自体珍しいので、それもあったのだろう。


「大丈夫だから。――頼む」


 一体何が大丈夫なのよ、と言いたかったが、そんなことを言える雰囲気ではない。後でエステルが泣き腫らした目してたら蹴り上げる、と心に誓って、リタは静かに部屋を出た。