過去捏造です。













 覚えてないけど、そこにある。








鷹の降りる窓








 その時間の中で、少女はまだ現在よりも若かった。過去の話だから当然であるが、髪は今よりも少しだけ長くて、淡い色合いのドレスで身を包んで本を読んでいた。
 今日読んでいるのは星座の本。彼女は星を見るのが好きだった。部屋の窓から夜空を眺めては、本にある星を探した。
 届かない空を羨ましいといつでも思うけれど、憎らしくはならない。
 空を飛んでみたいとは思うけれど、今のままでも不便ではない。
 今の自分に満足している部分は確かにあるけれど――不満な部分もたくさんある。
 本を読んでいると色々と考えてしまうのはどうしてだろう。自分を見つめ直すような気持ちになる。
 栞を挟んで一区切りつけると、エステルは椅子に座ったまま伸びをした。先程まで空高くにあった筈の太陽は、いつの間にか沈み始めていた。
 少し風が冷たくなってきたようだ。そろそろ窓を閉めようかと彼女が立ちあがった時だった。


「っきゃ……」


 突如、強い風が窓から吹き込んできた。思わず目を瞑って顔を覆う。その風に本が煽られ、ばらばらとページが捲られて栞が部屋の隅に吹き飛んだ。
 それらの音に紛れるように、何か音がした。風もやんで、何だろう、とエステルが目を開ける。と。


「……………………?」
「……あ、悪い。都合よく窓が開いてたもんだから」


 窓の近くに一人の青年が居た。たった今着地したように膝を折っていて、風に首の後ろで一つに縛った黒髪が靡く。


「…………っひ」
「うわっ、ちょっと待った、待った待った!」


 騎士が着るような服を身につけているから、そこまで怪しい存在ではないと頭の中では理解していたが、いきなり目の前に知らない人間が現れるなんて予想していなかったので、エステルは反射的に叫びかけた。その口を青年の手ががぼりと塞ぐ。すぐにその手を引き剥がすことは簡単だったのだが、なぜかエステルはしなかった。……今思えば、彼が悪者ではないと、感覚で悟っていたのだろう。


「驚かせてごめんな。覗きに来たとか怪しいもんじゃないし、不法侵入……は、しちまったか。とにかく、すぐ出てくから」
「え、え、あ、あのっ、待ってください!」


 手を離すと青年はばつが悪そうにため息をついて、部屋から出ようとする。先程の強い風のようにひらりと去って行ってしまいそうで、それが別に嫌な訳ではないのに、引き留めてしまった。
 振り向いた青年の瞳は、とても不思議だった。
 背が高くすらりとしていて――自分とそう歳は変わらないのかも、と一瞬思ったが、黒い瞳は全てを見透かすような色をしていて、まるで世界の表も裏も見極めるような鋭さで、少し年上なのかしら、と思い直す。だが、整った顔立ちはどこか幼さを残していて、年齢を判断するのは難しかった。


「あの……どうして窓から入って来たんですか? ここ、結構高いですけど……」
「ん、まあちょっとな。いや、腹が減ったもんでつまみ食いしてたら見付かって。一緒につまみ食いした奴囮にして逃げて来たんだけど、どこかに隠れてやり過ごそうと思ってな」
「………………」


 囮になっちゃった人……大丈夫なのかなあ。


「えと……あの……でしたら、暫くここに居てはどうです? 窓から入ったのを誰も見ていないのでしたら、きっと平気ですから」
「……見ず知らずの男を平気で匿うのか?」
「貴方、騎士の方ですよね。だったら怪しくありません」


 もしかしたら騎士の格好をした泥棒かも、という思いはあったが、彼の瞳を見ていたら疑うのが馬鹿馬鹿しくなった。それほど綺麗で、真っ直ぐな色をしていたのだ。


「……そか。んじゃ、お言葉に甘えて、ちょいと匿って頂きますか」


 芝居がかった口調で言うと、青年は近くの椅子を引いてそこに腰かけた。女の子みたいに整った顔立ちをしているが、騎士の服に隠れた肌は鍛えられている。細身ではあるが筋力はあるのだろう。だって、騎士だし。


「あの」
「何だ?」
「髪、ぐしゃぐしゃですよ」
「……あー、さっきすっげー風吹いたからか」


 耳にかかっている黒髪を一房摘まんでから、青年は髪を縛っていた紐を解く。


「待ってください。今、ちゃんと縛りますから」
「平気だって、こんなん適当に縛っときゃ。いつもそうだし」
「駄目ですそんなの、勿体ない。折角綺麗な髪なんですから」


 ドレッサーから櫛を取り出し、椅子に座る青年の後ろに立つ。青年の顔は何か反論したげで、唇も今にも動きそうに半開きだったが、呆れたのか諦めたのか、口を閉ざして前を向いた。その仕草についエステルはくすりと笑い、青年の髪に櫛を当てた。さらりと零れる長く美しい黒髪。首の後ろで一つにするには勿体ないくらいだ。


「……言っとくけど、変な髪形にするなよ。二つ縛りとか」
「やっぱり、駄目です?」
「やっぱりも何もねえっつの。頼むから、さっきと同じにしてくれよ」


 それでも自分から櫛を奪おうとしないし、椅子からどこうともしない。……不思議なのは、彼の方だ。見ず知らず、会ったばかり、いきなり匿うことにした自分に、簡単に背を向けているなんて。もしかしたら、背後からナイフを突き付けたりとかするかも知れないのに。変な人。……多分、この人もわたしのこと変って思ってるだろうけど。でも仕方ない。だってすっごく綺麗な髪。触りたかったし。


「羨ましいです、こんなにさらさらな髪」
「そうか? まあ、すぐ絡まるよりは楽だけどな」
「私、伸ばすと癖が出ちゃうんです。だから短くしているんですよ」


 会ったばかりなのに、会話は酷く自然だった。互いの名前も知らないのに。……名前。訊いた方が良いのかしら、とエステルは思ったが、訊くタイミングが分からなかった。そうしているうちに髪を縛り終えてしまって、もうちょっとゆっくりやれば良かったかな、と少し後悔した。


「はい、出来ました」
「サンキュ」


 そうして先程のように髪を一房摘まんで、青年は笑った。一息ついてから立ち上がると、準備運動をするように片腕を少し回した。


「じゃ、オレそろそろ行くわ。囮の奴も助けねえと。無事かどうか、分かんねえけどな」
「はい。気を付けてくださいね」
「……お前、ほんっとに変わってるな」
「貴方もだと思いますけれど」
「ははっ、そうかもな」


 目を細めて笑った彼の顔はやっぱりどこかに幼さを残していた。よく通る声。夕日に照らされ、艶やかな黒髪が光る。


「オレさ。……正直言って、貴族とかお役人とか、嫌いになりそうだけど」
「………………」
「お前は良い奴だな。貴族とか嫌いになっても、あんたはその対象には出来なさそうだ」
「…………そう……なんです?」


 何だか言っていることがよく理解出来ないが、多分誉められているんだろうな、とエステルは思って首を傾げた。そんな自分の心情を理解したのか、青年は苦笑してから窓に手をかけた。


「じゃ、な。また会うかどうかは分かんねえけど、今みたいに見ず知らずの人間をほいほい匿うもんじゃないぞ」
「では、貴方はもう見ず知らずではないから、また窓からやって来ても匿って宜しいんですよね?」
「お前がそれで楽しいんなら、な!」


 弾みをつけて青年は言うと、ひらりと窓から飛び降りる。まるで一時羽を休めた鳥のように、ふわりと消えてしまった。エステルは窓から彼を見下ろすことはなかった。見下ろしても引き留められないし、見下ろして無事かを確認する必要もないと思ったからだ。
 また、会うことがあるのかは分からないのだが。
 次に何を話そうか――想像しただけで楽しみだったのは、確かだった。