夜。ベッドはエステルに使わせることにして、ユーリは予備の寝具を引っ張り出して適当に床に敷いた。


「あの、ユーリ。わたし、やっぱりそっちで寝ます」
「良いっての。客人が気ィ使うな」
「えーと、でも私がここに来たいって言ったんだし」
「悪いって思うなら、素直にそっち使う!」
「…………はい」


 最終的にはぴしゃりと言われてしまって、エステルはしょんぼりしながらベッドに腰をおろした。しかしラピードが昼から見当たらない。あいつ、これはオレに野蛮になれって言ってるのか?、とユーリは考えたが、考えてもどうしようもないのでやめた。


「あ、そうだ。ユーリ、これです、これ。わたしが今読んでる本」
「へえ、どんな……って……分厚いな」
「はい、重たくて大変でした。これ、花の図鑑です」


 花の。
 荷物から本を引っ張り出したエステルは、ベッドに腰掛けて膝の上に本を広げた。床に敷いた寝具の上であぐらをかいてそれを見ていたユーリは、エステルが自分の隣を手で叩いたのに気付くと、そこに腰をおろした。


「歩いていて、綺麗な花が咲いていても、その花の名前が分からないのが残念で……だから、少し覚えようと思いまして」
「それにしたって分厚すぎるだろ、こりゃ。もうちょっと軽いのから始めようとは思わなかったのか?」
「余り名が知られていない花とかは、こういうのを見ないと駄目なんです」


 相変わらず勉強熱心だ。特に勉強を強いられている訳でもないだろうに、体内に知識を取り入れようとするのはなぜだろう。まあ、自分にも色々とそういう部分はあるから、そこまで理解出来ないとは思わないのだが。


「……ピンクの花」


 独り言のようにユーリが呟く。エステルがきょとりと顔を上げると、ユーリは本を指差して続けた。


「ピンクの花。小さくて、ピンク色した花。探せるか?」
「……小さくて、ピンク……えと……待ってください」


 エステルは少し慌てたように、ぱらぱらとページをめくる。


「小さくて……ピンク……こんなのとか、どうです?」


 やがてエステルの手が止まり、紙の上に小さなピンク色の花が現れた。シロツメクサの葉に似た三枚の緑色の葉に囲まれた、五枚の花弁の小さな花。


「……オキザリス」


 ユーリがその名をぽつりと呟く。不思議な発音のように思えたのはどうしてだろうか。


「他にもありますよ。ルクリア、アリッサム、ローズゼラニューム……小さいか、というと、また別になるかも知れませんけれど」
「……へえ」


 ああ、やっぱり。
 似ている。
 どこが、かは分からない。だが美しく咲くその花は、まるで隣に座る彼女のようだ。


「知らない名前の花ばっかだ」
「わたしも知らないものばかりです。でも、楽しいです。……自覚したこと、あります? わたし、ユーリに出会うまで、ユーリの名前、知らなかったんですよ」


 当たり前のことだった。だが思えば、不思議なことだ。生活の一部に溶け込むように、体内を流れる血のように、当たり前に発音するその名を、もしかしたら知らずに過ごしていたかと思うと。
 そんな現実があるだろうか。
 彼女と出会わず、名を知らず、日々を過ごすなんて。


「……ユーリ?」


 ふっと息をつき、エステルの肩に頭を預ける。髪の香りがいつもと違った。……そうか、自分と同じ洗髪剤だから。お風呂にあったのを使わせて貰います、と言っていたから。だからいつもと違う、自分と同じ香り。






「エステリーゼ」






「、え」


 エステルの肩が強張る。……暫く沈黙が続いた後、ユーリはゆっくり身体を離して肩を竦めた。


「やっぱ駄目だ。お前はエステルだよ」
「……もう。びっくりさせないでください」
「ははっ、悪い。本名で呼んだことなんて数えるほどしかなかったから、どんなもんかと思ってな。駄目だな。慣れねえ」
「慣れないでください。気に入ってるんですから、エステルって名前」


 エステルは少し拗ねたような口調でそう返し、本を閉じた。ユーリは立ち上がると伸びをして、それから欠伸。


「さて、と……もう寝るか。明日は一日、下町見物だろ?」
「はい。よろしくお願いしますね」


 ベッドにもぐったエステルは、掛布に包まれて笑った。全く、こんな風に笑われたら、野蛮になる気も失せてしまう。
 しかも、電気を消してから数分で少女が寝息を立て始めたので、何か期待した自分が馬鹿らしくなってしまった。


(野蛮、とか)


 からかいの言葉一つで揺れるなんて、考えもしなかったのに。
 誰かを好きになるって、楽しいけど、色々大変。


「…………? 何だこれ」


 どうにも眠れそうにないのでぼんやりと見慣れた部屋を見渡す。暗闇でも窓からの月明かりで何がどこにあるかは分かる。そうして、今はエステルが使っているベッドの脇に、先程の本が転がっていたのを見付けた。眠くなるまで眺めようと手に取ったら、最後のページに折り畳んだ紙切れが挟まっていた。
 紙切れとエステルの寝顔を暫し交互に見てから、こっそり折り畳まれた紙を開ける。
 そこにあったのは――正直な話余り上手いとは言えない――絵だった。


 作家になります。


 ……確か、そんなことを彼女は言っていた。その一歩の一つだろうか。
 しかしこれは誰だ。黒髪に黒い瞳の。


 あれ?


(オレ、か?)