翌朝、エステルが目を覚ますと、本のページをめくるような音が脇から聞こえていた。ベッドの中で顔を動かすと、黒髪の頭が目の前にあった。見慣れない景色に、ここはどこだっけ、と考える。ああ。ここは下町。ユーリの部屋で。わたしはここで、何日か暮らす。
「…………、ユーリ」
「おう。起きたな。随分とぐっすり眠ったみたいだな」
「あら……もうそんな時間です?」
「いいって。朝早くから下町見物したって、見るもんねえし」
ベッドに背中を預けるように床に座っていたユーリは、一冊の本を眺めていた。ページをめくるような音はこれだろう。まだ眠気が残る頭のままで、エステルはベッドの中でもそもそと動き、ユーリの肩の上に顎を乗っけるようにして本を覗きこんだ。
「何読んでるんです……?」
「……寝ぼけてんのか? これ、お前が昨日見せてくれた本」
ユーリはエステルの頭に頬を寄せるように首を傾げ、苦笑してから本を少し持ち上げてエステルの顔に近付けた。ぼやける視界の中で、本もまたぼやけている。少女は目を細めて本を見つめる。……確かにこれは自分が持ってきた、読みかけの花の本。
そしてあることを思い出し、一気に目が覚めた。
「だ、だめですこれっ……!」
慌てて本を奪おうとしたら、本を閉じられた。ぽん、と音がして閉じられて、溢れた空気に目をつぶる。
「見てない、見てない」
笑いながら彼はそんなことを言って、肩越しにエステルに本を渡した。しかし、こんな風に笑いながらわざとらしく言った言葉は大抵嘘であると彼女はとうに知っているので、本を胸に抱いてユーリをじろりと睨んだ。
「……見たんですね」
「何を」
「だから! この本に挟まってた絵!」
「絵? ああ何、そんなのあったの? そりゃまだ見てないわ、貸して」
「貸しません!」
「貸してくれんじゃなかったの? 本」
「ユーリが言ってるのは本じゃないです!」
真っ赤になって怒鳴られた。そんなに言うかね、とユーリは肩をすくめると、窓に手をかけた。
「じゃ、オレちょっと朝の散歩してくるから。オレが出たら、戸締りちゃんとすること。カーテンは閉めろ。三十分もしたら帰ってくっからな」
「え、あ、はい。ユーリ、毎日朝は散歩するんです?」
「いつもは行かないけど、お前の生着替え、見てて良いなら行かないぞ?」
「は、早く行ってください!」
ユーリは心底おかしそうに笑い、笑いすぎて滲んだ涙を手でぬぐい、はいはい、と手をひらひら振って窓から部屋を出た。
「…………、もう……」
気を遣っているのか、いないのか。……結局ユーリはこの絵を見てしまったんだろうか。いつか作家になった時、王子様にしようと思った男の子。
世界のあらゆるものに名前をつけた男の子。
そう、わたしの名前も。
「エステル」
もうすっかり自分に溶け込んだ、彼が作り出した『自分』を発音する。自分の声なのに、まるで彼が名を呼んでくれたような錯覚に、思わず笑みが零れた。
そうして彼女は本をベッドの上に置き、立ち上がる。
早く身支度を整えなければ。
三十分、と言っていたけれど、またからかって早くに戻ってくるかも知れないから。
居候とか夜とか名付け親とか作家とか 色々詰め込みました。
ユーリは好きな子をいじめたりからかったりが好きそうだな、という妄想の結果。