殺すことは、平和?








空中真珠








 ありがとう、と、彼女は言った。
 小鳥が鳴くように空気を突き抜ける声で。
 木々が風に擦れるように安らぐ声で。
 嬉しそうに笑っているのに細めた瞳は涙で一杯で、何でだろう、と思いつつも、そりゃどうも、とユーリは答えた。……気の抜けた声だった。何が起きているのか理解出来ないから、もあっただろうが、心のどこかで今の状況を理解していたからだ。
 全身の力を失った少女を、片膝をついた自分の両腕が支えていた。その手が、ぬるりと滑る。
 いつの間にか、周りには水溜まり。
 水ではない。
 血溜まりだ。


 わたしを、殺してくれて。


 彼女がそうやって笑ってまた流した涙は、血の赤。
 視界が揺らぎ、腕が震えた。勢いよく息を吸い込んだ喉が変な音を立て、血の生臭い匂いが全身を駆け巡る。


「……っ、……、…………、」


 彼女の名を、呼ぼうとした。だが声は出ない。もう彼女の唇は、自分の名を呼ばない。






 全身を震わせて、目が覚めた。掛布を撥ね退け勢いよく起き上がり、辺りが暗闇であることを認識。荒い呼吸はすぐには整いそうにない。静寂の中で自分の呼吸音だけが響き、前髪が汗で張り付いた額から、一滴の冷や汗が頬を伝って顎から落ちた。


「…………ッくそ……」


 舌打ち交じりに吐き捨てて、額に手をやり前髪を掻き上げる。長い黒髪が肩を滑って、視界の端で揺れた。
 部屋の中は暗いが、どこに何があるかは分かる。今日は大部屋だ。仲間全員が同じ部屋で眠っている。


「……カロル。おっさん。……リタ……ジュディ――」


 ベッドで眠る仲間を確認し、ぽつぽつと名を空気に飛ばす。ベッドについた手の脇に何かが乗っかる感触がしてそちらを向くと、相棒が顔を乗っけていた。


「……ラピード。……大丈夫だ。心配すんな」


 頭を撫でると、ラピードは承諾したように低く小さく鳴いて、すぐに頭をどかしてベッドの横に寝転がった。


「ラピード。エステルはどこに行った?」


 ベッドが一つ開いている。掛布は整っているが、そこに確かに少女が存在していたことは明らかだ。ラピードは少し目を開けると、窓の外に顔をやった。


「……そか」


 ユーリはベッドから降りて、剣を片手に扉を開けた。そこで引き返して開いている片手で薄い掛布を持ち、今度こそ部屋を出る。
 再び目を閉じたラピードは、何も見なかったように眠った。





 どこに居るか、までラピードは示さなかった。部屋を出て行くのを見ただけで、どこへ行ったかは分からなかったからだろう。
 みんなには、内緒ですよ。大丈夫です、夜明けには戻ります――恐らくそんなことを言って部屋を出たのだろう。想像出来てしまうのは、嬉しいのか悲しいのか。予想出来ていたなら止めることも――いや、誰だって一人になりたい時はあるだろう。


(……少し、待つかな)


 宿を出たところで、ユーリは空を見上げてそんなことを考え、入口に腰をおろした。


 殺して、なんて。


(そんな覚悟、あっさり決めやがって)


 治癒術を持つからこその思いだろうか。誰かを癒す力を持つからこそ自分を犠牲に仲間を助けたいと思い、それが自己犠牲に繋がったのか。……そんなのは逃げ道だ。多分エステルは、治癒術なんか持っていなくてもこんな覚悟を簡単に決めただろう。
 だが、その願いに答えようとした自分が居たのも事実だ。
 最悪の事態は覚悟していた。どうしても駄目なら、手にかける覚悟はしていた。そしてその役目は誰にも与えない、自分がするのだ、とも。消えていく彼女の感覚を覚えていれば、自分は彼女の存在を忘れない。そうでなくても忘れない自信は嫌というほどあるが――彼女を止められなかった罪を思うなら、彼女を止めた罪も背負って生きるのが良いと思ったからだ。
 止めても、止めなくても、罪はのしかかる。
 血を血で洗うこの手を、また彼女の血で洗い流して。
 ……でもきっと彼女の血はどんなものよりも清らかで、決して手から消えたりしない最高に幸せな呪縛になる。
 彼女がどうしても戻らないなら。


「……っは」


 そこまで考えて、ユーリは俯いたまま鼻で笑った。込み上げるものに息を吸い、暫く自嘲し、そして剣を左手でぎゅうと握った。


「……オレが、殺されたかったのか」


 彼女の手で殺されれば、自分は永遠に彼女の腕の中に居られる。
 逃げるつもりはないけれど――そんなのも、良かったかも知れない。


「あいつは――良かねえか」


 そうなれば、エステルはずっと罪を背負う。
 彼女に背負って貰って良い罪なんぞ、あるものか。