ぷっつり途絶えた記憶が次に繋いだ場所は、柔らかなベッドの中だった。
隣で水音が聞こえたのでそちらに目を向けると、桃色の髪の少女が桶に張った水でタオルを洗っていた。彼女の手が動く度にぱしゃりと涼しげな音が鳴り、熱くなった喉が冷めていく気がした。無意識に大きく息を吐き出すと、エステルはびくりと肩を震わせてこちらを見つめる。彼女は何か言おうとして――多分口の形からして自分の名だと思う――、けれどふいと顔を桶に戻して再び手を動かし出した。
「まだ起きては駄目です。熱が下がっていないんですから」
「……ああ、熱か。やっぱりあったんだな。ほっときゃ治ると思ってたんだが」
「治りません。……大変だったんですよ。テントの中で休ませていても良くならないって、大急ぎで引き返して来たんですから」
怒ったような、低い声。単調な話し方。分かりやすいな、とユーリは思わず頬を綻ばせたが、全く笑えるような雰囲気ではなかったのですぐにやめた。
次の街に行くより引き返した方が早い。今朝と同じ宿の同じベッドで目覚めはしたが、その時とは全く違う。仰向けになっていても身体が揺れているような錯覚に陥っているし、体に力が入らない。風邪をひくなんて久々で、こんなに辛かったか、と思うほどだ。
ゆっくりと顔を動かすと、カーテンの向こう側は真っ暗だ。この部屋の明かりも、ベッドの脇にある小さなライトだけ。
「みんなは隣のお部屋で眠っています。……ユーリもしっかり休んでください」
絞ったタオルでユーリの頬を撫でながら、エステルはまるで子供に言い聞かせるようにゆっくりと言った。抵抗しようにもそんな気力もなく、ユーリは目を閉じて身体の力を抜いた。額や首筋を滑るタオルは冷たく、汗ばんで熱い身体に心地良い。
「悪い。……情けねえな。大口叩いといてぶっ倒れるなんて」
「本当です。みんなのところまで戻るのも大変だったんですから。わたしはユーリみたいに力持ちじゃないから、だっこして持って行けないんですよ」
「お前にそんなことされたら、男として生きていく勇気なくなるよ」
軽く笑い飛ばすつもりだった。が、無理だった。軽口を叩いて少女の瞳を見てみれば、怒りの色を帯びている。……気まずい。結局ユーリはまた目を閉じる。
「ユーリ、前、わたしのこと、ばかって言いました」
「……いつの話だよ」
「三日くらい前です。わたしが魔物と戦ってた時。ユーリが怪我したから治そうとして、魔物が後ろから来ているのに気付かなくて。それで、ユーリはわたしを庇ってまた傷を作って。それで、わたしのこと」
「ばか、って怒った。……当然だろありゃ。人の心配するより、自分のこと心配しろ」
「どうしてユーリに言われなきゃいけないんですか。こんなになるまで自分のことほったらかして、わたしに治癒術使わせないようにして。誰にも言わないで、一人で……」
瞳から零れた涙が、彼女の白い手の甲に落ちた。普段は白い手袋に包まれ、手首に魔導器を装着している左手だ。エステルはその手の甲で、涙に潤んだ瞳をごしごしと擦り、タオルを桶に沈めた。
「……治癒術」
「え?」
「約束、守ってくれてんだな」
彼女の力なら、この風邪を吹き飛ばすなんて容易いだろう。まあ、彼女の身体に負担はかかるのだが――エステルのことだ、こんなことになったら治癒術を使うと思っていた。だが自分の身体は重く熱を持っている。彼女は治癒術を使わず、看病してくれていたのだ。
「みんなにも言われました。ユーリは寝ているんだから、治癒術を使ったらどうだって。わたしだって本当は心配で心配で、使いたかったんです。だけど……約束とか、命令とかじゃなくて。ユーリはわたしの力がなくてもまた歩いて行けるって、信じてましたから」
桶の傍には白い手袋と魔導器。魔導器がなくても治癒術は使える。それと同じように、自分の治癒術がなくてもユーリは立ち上がると思った。間違ってはいないと思う。実際、これくらいの風邪なら治癒術なしでも平気だし、第一下町には治癒術を使える人間なんて居なかったから、治癒術で風邪を治すということ自体ユーリには前代未聞の話だった。
だが、どうも彼女の言い分と治癒術とは関連性が異なっている。
少なくとも、ユーリにはそう聞こえた。
「それでも、お前はオレを看病してくれたんだろ。今も」
「…………はい」
「一人じゃねえだろ。お前が看病してくれたから、オレはここで目を覚ました。ぶっ倒れたまんまにならなくて済んだ。治癒術とは関係ないだろ」
「…………そう……ですね」
今一はっきりしない相槌だ。まあ、当然だろう。
自分だって、剣を封じて戦え、なんて言われたらどうしたら良いか分からない。
……そういうことだ。
お前が居なくて、どうしろって言うんだ。
「……エステル。悪かったな」
「はい?」
「お前のこと、縛り付けてた。……オレが。確認したくて。自覚させたくて。それだけのために、縛り付けた」
もっと、自分自身を見つめて欲しかったのだ。
だって彼女は周りの事ばかり気にして自分のことをないがしろにして。それに気付いて欲しかったから、治癒術を使わせないようにしたのに。彼女の力が、彼女の優しさが、彼女の頬笑みが、どれだけ自分達を安心させているのか知って欲しかっただけなのに。
なのにそんな自分が風邪をひいて、こうやって心配させて、また彼女は自身をないがしろにしたりとかして。
「……ユーリ……謝るなんて、珍しいです」
「今このタイミングでそういうボケを持ってくるかね……ていうか何気に傷付くなあそういう台詞」
そんなに謝ったことがなかっただろうか。……それとも、傷付けるような発言を、知らないうちに何度もしていたと言うことか。
「……サンキュ。オレはもう平気だ。エステルも休めよ」
「いいえ。わたしはここに居ます。だって、そんな禁止令、出てないですから。あ、今から出したって駄目です。決めましたから」
頑固者、と言い放つと、知ってた癖に、と笑われた。……ああ、多分、もう大丈夫だ。きっと戦闘になる度に彼女は自分をすり減らして仲間を守る。けれどそれをやめることはないだろう。そのことに気付いて、少しは自分のことを大事にして欲しかったのだけれど――もう、関係ない。
それが彼女だ。
奪う行為は、出来ない。
結論を出したら、急に瞼が重くなった。身体がベッドに沈んでいくような感覚に、ユーリは長く息を吐き出した。
「こんな気分だったのかな」
「……?」
「リタ。お前がずっと治癒術を使って……眠って……今は治癒術とかねえけど、多分、こんな……」
「ユーリ……?」
ぽつぽつと語る言葉に耳を傾けていたが、やがてエステルはくすりと笑ってユーリの瞼に手を翳した。子供を眠らせるよう視界を遮った彼女は、優しく告げる、
「……ありがとう、ユーリ。わたし、ユーリのこと、とても大事なんです」
全く話が噛み合っていない。思ったが、言うことすら出来なかった。眠りに引き込まれたユーリは、その時の少女の顔がとても嬉しそうだったのを見逃した。
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