「…………辛そうな顔、してた、な」


 ぽつりと呟いた声は、雨音に簡単に消えた。背を預けた木を伝ってずるずると座り込むと、尻をついた地面は思ったよりも湿っていた。
 禁止令を出したあの時、エステルはとても辛そうな顔をしていた。
 必死に隠していたようだったが、気付けないほど馬鹿ではない。
 自分は彼女の特権を奪った。
 たった一言で、彼女の役割を奪い去ったのだ。
 自分にしかない力を封じられて、彼女は辛かっただろう。それを承知で禁止令を出したとはいえ、あの顔を思い出す度に心が悲鳴を上げた。


 ――はい、もう大丈夫です。無茶しないでくださいね、ユーリ。


 柔らかな光を抱いた少女はその光より鮮やかに微笑み、優しい声で言葉を紡ぐ。
 一番頼っていたのは自分だ。
 気付いてしまったから、遠ざかろうとしたのだ。
 なのに。
 結局は欲していることを自覚しただけだ。


(治癒術じゃない)


 微笑みを声を瞳を髪を全てを。
 憧れて、恐れた。


「ユーリ! ……良かった。見付けました」


 そうして欲していた優しい声が聞こえた時、嬉しかったのに心が軋むので、ユーリは自然唇を噛んだ。どうしてこんな時に。


「風邪をひいたら大変です。みんなも心配していました。戻りません?」
「……もうちょいしたら、な。エステルは先に戻ってろ。オレみたいに頑丈じゃねえんだから」
「そこでユーリと比べるのはおかしいです。……私が心配しているのはユーリなんですよ」


 言うと彼女は自分の横に立ち、木に背を預けた。そこから動こうとしないので、ユーリは座ったまま不審そうに彼女を見上げた。


「何してんだ」
「ユーリが戻りたくなるまで待ってます。……一人になりたいのかも知れないですけど、何だか今のユーリを一人にしたくなくて。わたし自身も、どうしてそう思うのかよく分からないのですけど」


 どうしてだろう、時折彼女の唇が自分の名を歌う時、泣きそうになる。悲しくないのに、目の奥が染みた。ここ最近、たまにぼんやりとしてしまうのは、このせいだろうか。


「……あの……ユーリ。……やっぱり、治癒術禁止……解除、してくれません? わたし、ユーリがもしも大きな怪我をしたらって思うと、怖いです。怖くて……想像したくないです。でも、ユーリが言っていることは、こういうことなんですね」
「……?」
「わたしの力は、絶対じゃない。きっとわたしも、この力に頼り切っているんです。でもわたし、ユーリを見失いたくありません……」


 見失う?
 どうして見失うなんて結論に至るのか。
 ああ、それに。何だろう。


「……どうして見ようとしないんだ」
「え」


 何でこんなに胸が熱いんだ。
 まるで苛立ちを感じているみたいに、熱くなっているんだ。


 ――音と共に木の葉が揺れた。


「…………、ユ……、?」


 頭の右側で響いた音に、エステルが呆然と目を見開いた。彼の名を紡ごうとして、なぜか失敗した。木の葉が揺れたことで水滴が零れ、二人の周りにばたばたと落ちてくる。その原因を作り出したユーリの左の拳は、力を緩めなかった。


「どうして……そんなに、見ようとしないんだよ、お前は!」


 声を荒げて怒られたことなんて、そんなになかった。エステルの思考が、時間が、止まった。
 濡れた黒髪を額に張り付かせ、苦しげな表情をした彼の、辛そうに細くなった瞳が、潤んでいるように見えた。


「……ユーリ……?」


 数秒経って、やっと声が出た。気の抜けたような声だ、と自分でも思った。まるで別人の名前を呼んだような錯覚に陥った。……だって、こんな声で呼んで良いほど、彼の名は軽々しいものではないのに。
 何かが擦れる音が右側からした。はっとしてユーリの顔を見つめた時には遅かった。木を滑ったユーリの拳はそのままエステルの肩に落ち、彼女に倒れ込むように崩れる。


「ユーリ!? ……きゃ……!」


 支えようとした手がユーリの肩を滑った。勢いよくかかった成人男性の体重に、水溜りが出来るほど水を吸った地面がエステルの足元をすくう。背中から水溜りに倒れ込んだエステルは、顔にかかった泥水にむせながらも何とか身体を起こす。


「っ、……ユーリ……、ユーリ、どうしたんです?」


 呼んでも返事は返ってこない。女のように整った顔立ち、長い睫は伏せられていた。手を掠めた吐息は熱い。


「……、ユーリ……? ねえ……起きてください、ユーリ……ユーリ!?」


 甲高い声で名を呼んでも、肩をゆすっても、反応はない。額に手を添えると、手のひらに熱が伝わってくる。どうして倒れるまで何も言わなかったのか。


(まさか)


 わたしに治癒術を、禁止したから?
 だから誰にも言わなかったの?


「…………ばかなのは……どっちです……!」


 絞り出すように吐き出した言葉は雨音に簡単に消えた。けれど、とうにそうやって消え去ったユーリの呟きに出会える訳がなかった。