4 「だって、それすら愛情表現」








「あらエステル、お帰りなさい」
「ただいま、お母さん」


 家に戻ると、母が台所で料理をしていた。昼食の準備にしては少々遅い。


「手伝います?」
「大丈夫よ、昼食はもう出来てるから。これは夕食の下ごしらえ」
「今からですか? 今日は早いですね」
「まあね。今日は豪華にいこうと思って」


 くすくすと母が笑う。何だか面白いことがあったような笑い方だ。エステルは心の中で意気込んでから、まっすぐに母を見上げた。


「お母さん」
「なあに?」
「お……お父さんと、今日で仲直りしてくださいっ!」


 緊張で声が裏返って、全く格好がつかなかった。そのことに恥ずかしくなり、エステルは途端に顔を真っ赤にした。母は仰天したように目を数回瞬かせてから、またくすくすとおかしそうに笑い出した。


「お、お母さんっ、笑わないでください! わたし本気なんですっ」
「違うのよエステル、やだ、何勘違いしてるの? 喧嘩なんてしてないわ」


 え?
 予想外の展開に、エステルが顔を赤らめたままぽっかり口をあけた。喧嘩してない? え? だってずっと仲悪かったのに?
 母はコンロの火を止めると、エステルに向かって少し腕を広げた。


「いらっしゃい、エステル」


 昔、母はこうやって、だだをこねる自分をあやしてくれた。母の胸は温かくて良い匂いがして、安心出来る。ぽふっ、とその胸に額をやると、優しい手のひらの感触が頭を滑っていった。


「ごめんなさいね、エステル。そんなに心配してたのね」
「しました! だってずっと喧嘩してたのに……」
「私、いつ喧嘩したって言ったかしら? 単に口を利かなかっただけよ」
「それを喧嘩と言うんです」
「……困ったわ。全く喧嘩したつもりはなかったのだけど」


 言いつつも、声色には全く困った気配が感じられない。エステルは何だか拍子抜けしてしまって、暫く母に頭を撫でられるがままにしていた。


「実はね、私達、賭けをしていたの」
「……賭け、です?」
「そうよ」


 あれ、何だろうこの胸騒ぎ。わたし、何だかとても、とてもどうでも良いことで振り回されていたような予感が……


「どっちが先に殴ったり蹴ったりするか、の我慢比べ」


 ……この数日間を一瞬で振り返ったエステルは、突如訪れた脱力感に眩暈を覚えた。








 ――時は少々戻り、エステルがレイヴンの部屋を訪れる少し前。フレンの家に、一人の男が訪ねてきていた。


「余りもんだけど、上出来だぞ。ほれ」


 料理上手で家庭的な主夫。この男が何かの物語の登場人物で、一言紹介されるとしたら、多分こんな言葉が使われるのだろう。差し出されたのは、野菜がたっぷり入ったキッシュ。最初から一人前として作られたキッシュは、いつも大きな器で大人数分作る彼のやり方から考えて余りものとは思えない。恐らく、最初から自分のもとへ来ようと思い、別に作っておいたのだ。


「フレン。オレはな、ひとつ男として成長するべきだと思った」


 改まって何を言うかと思ったら、熱でも出ているのかと思うような一言だった。この男の口からまさかこのような言葉が出てこようとは。あの美しい奥方へのプロポーズ前だって、こんなことは言わなかった。普段と変わらないどころか、いつもより気が緩んでいたような感じでもあったのに。


「……ユーリ、君、奥さんに何か言われたのかい」
「いや、何も。だがな、流石に殴り合い蹴り合いはそろそろやめようかと思ってな。じゃあ、どっちが先に手をあげるか賭けようってことになったんだ」


 ああ、それは良い考えだ。というか、何で数年間その考えに辿り着かなかったんだろう君は。言いかけて口を閉ざしたフレンは、ひとつ頷く。


「良いじゃないか。そのまま続けば、エステリーゼさん達も心配しないで済む」
「だろ? でもなあ……これが中々に難しい。驚くことに、殴り合い蹴り合いはオレ達にとって不可欠だった訳だ」


 ……どうしよう。話の流れが掴めない。つまり彼等にとっては、言葉を交わすより態度で示すほうが早い、ということだろうか。態度というには少々過激ではあるが、スキンシップととればおかしくはない。


「殴ったり蹴ったりはいけない、だろ? でもそれが当たり前になっちまうと、なくなった途端意思表示の仕方が分かんねえ。喧嘩してねえのに、喧嘩してる気分だ」
「二人にとって、それは愛情表現のようなものだった、ということか」
「……そんなお熱いもんじゃねえけどな」


 肩をすくめてユーリが答え、前に置かれたコーヒーを啜った。
 暴力ではない触れ合いが彼らにとってかけがえのないもので――でもそれを子供達は嫌がり――やめてみたら何だかちぐはぐ。付き合いたての初々しい二人ではあるまいし、何を今更。フレンは面白くなってつい吹き出してしまい、ユーリにじとりと睨まれた。


「ごめんごめん。……で? そこですんなりやめないで僕のところに来るということは、何かすることがあるんだね?」
「話が早くて助かるよ。お前、今日おっさんのとこに行ってくれ。……多分な、エステルが痺れを切らしておっさんに相談しに行くぞ。適当に話を濁して、家に帰らせるように言ってくれ。どうせ賭けの期限は今日だ。大人しくいつもの日々に戻るさ」


 戻ったら戻ったで、またはらはらする日が続くんだろうけどなあ、とフレンは思ったが、言わないでおいた。だって、らしくない二人を見るのは、子供達だって辛いだろう。
 しかし――長男はともかく、次女はこんな理由で納得するだろうか。真実を話した瞬間ボコボコにされるユーリが簡単に想像出来てしまって、フレンはこっそりと同情した。