5
高く堅い床を歩く音が、暗闇を静寂を包むように響いた。
何処迄行っても暗闇は暗闇のまま変わらず、けれど恐いと言う感情は一つもなかった。それは慣れてしまったからであろうか、それとも『光』が見えているのだろうか。眼には見えない光が。そんなお伽噺にも似たものが。
普通の人間である聯紗は自分達より暗闇は不慣れだろうに(それは地球が電気などで常に明るく、あっちの夜がこの地球の夜より暗いからそうであろうと言う予想だった)、彼女はしっかりとした足取りで歩いていた。
「恐くないのか? 目隠しして歩いてるようなモンなのに」
不思議に思って、扇はそう問うた。暗闇でも自分達の姿が見える。それは心があるからで、心は常に光を発しているからだ。
「だって此処は夢の中でしょう? それに君達は見えるもの。ま、君達が見えなくなったら即アウトでしょうね」
相変わらずクールに髪を掻き上げながら聯紗が言うと、殊子がくす、と笑った。
「大丈夫だよ、消える事なんてないから。死なない限りね」
「そう」
聯紗もつられて笑って見せた。
「……箕知。この先にはあんたの見たくないものがあるかも知れない。でも、思い出せなかった良い思い出が待ってるかも知れない。結果は俺達にも解らない。覚悟は出来てるか?」
確認するように一つひとつの言葉に重みを掛けて、扇が言った。
「ええ。――ええ、出来てる」
それに、と彼女は付け足した。
「行かなきゃ、『影』はずっと私の中に居るんでしょ。なら行くしかないじゃない」
『影』は、別に悪い思い出だけに付け込む訳でもない。良い思い出に付け込む事だって同じ位ある。
夢は夢、それを理解するからこそ『影』は存在する。
悪い思い出ならそれに触発し、良い思い出ならそれに嫌味を持たせる。
夢なのだから、有り得ない事ではない。
そうやって、付け込むのだった。
「それじゃあ、進もう」
殊子が力強く頷き、言う。
扇は、本当に強い奴だ、と思った。
彼女が聯紗の立場でも、きっと恐れずに進むのであろう。辛い思い出に出逢うかも知れない、それでも進むのであろう。
その先にある希望。それこそ夢のようなものを求めて。
希望の為に辛さを恐れず進む強さ。
そんな強さ、自分には、ないから。
彼女が羨ましくもあった。
「……扇ちゃん?」
目をぱちぱちと瞬かせて、殊子が凝視した。
「何でも……ない、よ」
彼女は一旦心配するような顔をしたが、けれどふっと笑った。
「うん。そっか」
ひゅうん、と風を切って上空へ何かが昇る音がして、三人は同時に空を見上げた。
「……まさか……」
聯紗が目を見開いた。一瞬、カメラのフラッシュのような光が炸裂した。
低く身体中を震わせる爆発音。それと同時に色とりどりの火花が華のように散った。
爆発音は休むことなく炸裂し、火花も又盛んに飛び散り、消えていく。
一時の、しかし美しいそれ。……花火。
「これが……先輩の、『思い出』だったんだね」
殊子が呟いた。
「『影』はその人の一番強い『思い出』に付け込むんだ。あんたの一番の思い出は、『花火』だったのか」
扇が言うと、聯紗は天を仰ぎながら呟くように返した。
「前にも言ったわよね。まだ母親が居た頃、花火を見に行ったって……」
「花火……?」
「隅田川の、綺麗な花火大会」
「あ……そうか。だから――」
母親との思い出。
現実。
ぶつかり合って生まれた『影』。
全てのパズルが、ぴたりと組み合わさった。
星空。
光。
火花。
川に映る、美しく輝くそれ。
と、手をくいと引かれ、聯紗はそちらを向いた。
五、六歳の少女。真っ黒い髪、大きな瞳。彼女が自分の手を掴んだのだ。
その少女の正体は、一瞬で理解出来た。
「私…………?」
彼女は微笑み、
口を、動かした。
「――――…………」
聯紗が言葉を発せずに居ると、少女はもう一度笑うと走り出した。同時に、ドン、と爆発音がして、聯紗の全てを動かした。
「ま……」
待って。
言おうとした言葉は消えた。走っていった先の両親、幼い弟。
父と母の手を取り、歩いていく少女。暗闇に消えた四つの後ろ姿。
名残惜しむかのように最後の音が炸裂した。ぱらぱらと火花が散って、消えた。まるでそれは、絵の具を思い切り弾いたように優雅に見えた。
解け合う筈のない飛び散った火薬の色が、解け合い混ざり合い、不思議な色を創り出した。
全てが消えて、暗闇に戻る。残されたのは扇、殊子、そして聯紗だった。
ふ、と聯紗が細く息を吐いた。そのままぺたんと暗闇に座り込んだ。
「箕知?」
扇が声を掛けた、しかし聯紗は答えなかった。
理由も解らないまま、頬に涙が伝っていた。
「……解ってたのよ」
ぽつりと、涙が零れ落ちた。
「私はずっと……四人で居る事を、待ち望んでたのよ。お母さんが許せなくても、それでも本当は四人で暮らしたかったの。もう一度あの時みたく、ああやって……」
悪くない、彼女は、何も。
本当は誰も悪くはなかった。只、良くもなかっただけ。そう思うのは当然で、けれど困らせていたのも事実だった。只、それだけ。
それ、だけ。
「素直になれなかった私が……お父さんを、お母さんを困らせてたのよね」
私、出来るかな。
今からやり直せるかな。
少しずつで良いかな。
……お母さんとちゃんと話したら、きっと私達、また親子に戻れると思うんだ。
そんなのは、私の自分勝手な理想かな。
座り込んだ聯紗の足下から、白い光が地を伝っていく。
「扇ちゃん!」
殊子が辺りを見回しながら言った。
「ああ。夢が……覚める」
扇がそう返す。全てが白に包まれる直前、聯紗がぽつりと呟いた。
「――お母さん…………」