4


 開けない夜はないし、止まない雨もない。けれどずっと太陽が頭の上で見護ってくれる訳でもなく、ひたすらに空は晴れない。
 カーテン越しの陽射しに、そして傍らに置いてある目覚まし時計の規則的なアラーム音に、扇はゆっくりと目を覚ました。
(ああ……そっか)
 ぼんやりと思い出す。朝が来たのだ。それで、正しければ今日は日曜日だと思うのだが、それなのにどうして学校に行く日と同じ時間に鳴っているのだろう。
「…………あ!!」
 やっと思い出し、ばっと掛布をはね除けた。寝癖だらけの髪を掻き上げて、
「準備!」
 そう、今日は明日の花火大会の準備があったのだ。


「あはは! 忘れちゃってたなんて扇ちゃんらしい!」
 殊子は笑いながら昨日の残りのシチューを火に掛けていた。
「確かにわたしは役員だから忘れないけど、でも準備は全員参加なんだよ?」
「ああ、でも俺もう終わったし、やる事。道具の調達だし」
 濡れた髪の毛(寝癖を直す為だ)を弄りながら、興味なさそうに扇は返した。
「わたし達がこっちに来る少し前に、こう言うのやってたんだってね。もうちょっと早く来てれば間に合ってたんだ」
「どうせ一回しか見らんないのは変わんねえよ。一年しか居られないんだし」
「あ、そっか。だったら今で良かった、最後の思い出だし。はい」
 とん、と音を立てて皿がテーブルに載る。
「……明日でわたし達、帰るんだね」
「ああ。だから早く箕知の事どうにかしねえと」
「うん……そうだね」
 以外にさらりとそう返したから、扇は少し不思議に思った。
「どうしたの?」
「え? いや、あっさりと返すなーと」
「あんな事になったから、もう一度夢に入り込むのが嫌になったんじゃないかって?」
 扇が何か返す前に、殊子は優しく笑った。
「でもごめんね。わたしはそんなにお利口じゃないの。ねえ、だってそうだよ。わたし達は夢の管理人だから。助けたいの。先輩を。だからごめんね」
「――何で謝るんだ?」
「扇ちゃんの考えとは、少し違っちゃったから」
「それでどうして謝んなきゃいけねえんだよ」
「ね、忘れないでね。扇ちゃん一人じゃ、仕事出来ないんだよ」
「……まあそうなんだけど、そう言う言い方はちょっと……」
 ちょっと情けない、迄はとても言えなかった。
 夢の管理人とは一見万能そうに見えて、実は一人で行動してはならない。それに理由は色々あるのだが、扇は『只危険だから』としか思っていない。又サポートと言う役目もあり、例えば扇と殊子の場合、互いをサポートするに正に相応しい組み合わせであった。扇の魔力、殊子の武力。それは結局偶然だったのだが、けれど息のあったコンビ。
「確かにあっちに戻ってからでも、先輩を助ける事は出来るよね。でも、ちゃんとやりたいの。ちゃんと終わって、それからちゃんとお別れしたい。在り来りだけど、でもこれがわたしのやりたい事だから」
「……ああ。そう――だな……」


 昨夜、聯紗は自分の分のケーキを食べながらこう言った。
『ところで、もう一度何かしなきゃいけないんじゃないの?』
 聯紗は鋭い。扇と殊子がもう一度夢の中に入り込まなければならない、と勘付いていた。
『それ、まだ駄目なんだよ。あんたは感じないだろうが、“入り込まれた側”も少なからず副作用みたいなモンが生じるんだ。それが残ってる限り、入り込んだらあんた壊れるぞ。ま、明日になれば元に戻るだろうが』
『……何か、さらりと恐ろしい事言われてるような気がするのだけれど』
『別にそうでもないよ。何も感じないだろ? 俺達にしか解んねえんだよ』
『あれだよ、ほら! 霊が憑いてるみたいなモン』
 殊子のとんでもない例えに聯紗は一旦言葉をなくして、しかしそれが返って想像しやすかったのか、納得したように頷いた。
『つまり、あれね。薬と同じよね』


「大丈夫だよ。もう失敗しないよ」
 否定させない、と言うような笑みを携えてそう言われて、扇は返す言葉もなく、けれど只頷いて見せた。
「でも……どうしようか」
 シチューを掬うスプーンを持つ右手が、ふと止まった。左手で前髪を弄りながら、顔を困ったように顰める。
「先輩、まだ副作用が残ってるみたい」
「やっぱり殊子もそう思うか?」
「何か躊躇いがあるのかな」
 その副作用が生じている限り、感染者の中には入れない。それは感染者である彼女自身が言っていた薬と同じで、一度服用したら再度服用する迄に時間をおかなければならない。
「今日になれば消えると思ってたんだけどな」
 扇も頬杖をついて溜め息をつく。
「まあでも、平気だよ、わたし達なら。言ったじゃん? 大丈夫だって」
 くすりと笑って殊子が返した。可憐で力強い笑み。まるで沢山の華を足で蹴散らし、そこに残った只一本の華のような。見た目よりも何倍も強い。
 ……こいつって、こんなに強かったっけ。
 ずっと一緒だった『妹』が、やけに遠く感じた。




 適当に最後の確認をしながら、扇は聯紗の波動を探った。どうやら今日は学校に来ていないようだ。全員が何かしらの手伝いを持っているのだが来ていない。
「な、箕知って居るじゃん。F組の」
 隣の男子生徒に訊いてみる。
「あいつって何処ら辺に住んでんだ?」
「は? 何で?」
「……ああ、殊子が何か最近親しくなったらしくて」
 それは確かに嘘ではないのだが、それだけが理由と言う訳ではなく、しかし絶対に言えないのでそう言う事にした。
「良く解んねえけど、でも近くらしいぜ? 帰る時とか住宅街の方歩いてるし」
「そっか……」
 とすると、家に居るのかも知れない。波動が近かった。思えば今聯紗は大変なのだ。父親と母親が縒りを戻すだの何だのと、そしてそれに反抗するなど。休む事も有り得るだろう。良く解らないが。
「とにかくもう昼飯食おうぜ。昼休みだし」
「あ、うん。て言うかあんま仕事してなくないか? 俺達」
「そう言う仕事じゃんか。だって所詮揃えた道具の確認だし」
 さらっと言われると、じゃあ数人位で良かったんじゃねえのかよ、と思ってしまうが、言わないでおく。
 弁当を出しながら、ふと指先に当たった携帯電話を取り出す。ボタンを押す。
『ふぁーい?』
 直ぐに出た彼女の声はくぐもっていた。口を押さえているのではない。多分、
「……お前、口の中何もなくしてから喋れ。頼むから」
『ええ! だってほっちから掛けたのに! 美味ひいミートボールなのにッ!』
「だからって――いや、とにかくだな。箕知の弟、来てるか?」
『んぐ……。どうして?』
 向こう側でミートボールを飲み込んだ気配。
「箕知、今日学校来てないんだ。だからもしかしたら弟も来てないんじゃないかって。俺、逢った事ないんだよ。お前なら一年同士、逢った事あるんじゃないか?」
 波動を掴みその人物を捜す事は出来ても、その人物の波動を把握出来なければ意味がない。聯紗の弟、州透に逢った事のない扇は当然彼の波動を知らない。だから殊子を頼ったのだ。
『えっと……うん。逢った事、あるよ。あ、でも来てないみたい』
「そうか――解ってるだろうけど、箕知も来てねえんだ。何かありそうじゃねえ?」
『そんな推理漫画じゃないんだから』
 言われて納得する。日頃こんな突っ込みを言うのは本当は自分で、自分が言った事は殊子が言うべき言葉だったのだが。
『でも……気になるね』
「だろ? 終わるの、どれ位だ?」
『もう少し。二時間もあれば終わると思うから……扇ちゃん、先に行ってて。もう終わるんでしょ?』
「先にって――先に行って何しろって言うんだよ、今あいつの中には入り込めないし、出来たとしてもお前居なきゃ駄目だろ!」
 耳元で、はあっと溜め息が聴こえた。
『話を聴いてくれる人が居るだけで、人って安心しちゃうんだよ』
「…………」
『お願い。わたしもなるべく早く行くから』
 ぷつ、と切られた音がして、扇は携帯電話を畳んだ。
 どうするべきか。
 扇は頭を掻くと、結局携帯電話を仕舞って弁当を取り出し、平らげてからバッグを持って立ち上がった。




 幾つも曲がり角がある道を波動だけを頼りに突き進む。
 迷路に迷い込んだ気分だ――と、扇は心の中で呟いた。何処を言っても、屋根や壁の色が違うだけの同じ道をぐるぐる回っているような、そんな気分になる。けれど波動は確実に近付いているから、間違っていないと判断出来る。
 やがて扇の足が止まる。特に特徴のない、挙げるとしたら庭が広い位の普通の家だ。
 此処から波動を感じる。
「って言うか、さ……」
 扇は家から少し離れて、顎に手をやって呟いた。
「一体どうしろっつんだよ。家に入り込めとでも言うのかよ、殊子の奴……」
「何やってるの、君」
「あァ?」
 降りかかった声の方へと顔をやると、二階の窓から聯紗が顔を出していた。生温い風に茶髪をふわふわと靡かせて、じっとこちらを見ている。
「やっぱり此処、あんたの家なのか」
「そうよ。ところで今は学校に居るべき時間なんじゃないのかしら」
「あんたに言われたくないな」
「……それもそうね。待って、そっち行く」
 聯紗が窓から姿を消して数十秒後、彼女は玄関を開けてこちらへ歩いてきた。何故か制服姿だった。このまま鞄を持てば直ぐに学校に行ける。
「立ち話もあれでしょ。中に入りなよ、実は誰も居なくて退屈してたのよね」
 肩を竦め、微かに口の端を持ち上げて聯紗はそう促した。




「それで此処に来たって訳ね」
 冷蔵庫からウーロン茶を出しながら、聯紗が納得したように言った。
「あいつは役員だから、まだ仕事が残ってるって。だから終わった俺だけ先に来たんだ」
 テーブルの上に置いてあった新聞を勝手に拝見しながら、扇は返す。
「……て言うかな。あんた、どうして制服なんだ? 学校来りゃ良いのに」
「行く気分じゃなくなったのよ。でも一度来ちゃったら脱ぐの面倒で」
「それで退屈かよ。自業自得だな」
 ウーロン茶と氷の入った透明なグラスを持って、聯紗は向かいの椅子に座った。正直、憎まれ口を叩いたのに反論してこない彼女は恐かったが、これで判明した。
 彼女は何かあって、それで学校に来なかったのだと。
「まあね。でも私の受け持った仕事、そんなに重要でもないから。私一人居なくても何とかなるわよ」
「それは俺も同じ。だって道具の準備だぜ? そんなんにあんな大勢要らねっつの」
 苦笑いしながら扇はグラスに口を付けた。直後、
「あ、それめんつゆよ」
と聯紗が告げた。一気に扇は噎せてグラスを置いた。けれど喉を通ったのは普通の味。
「箕知、てめぇ何しやがんだよッ! あーびっくりした! めんつゆじゃねえじゃんウーロン茶じゃん! あッ今思ったけど匂いで判断出来るじゃねえか!」
「ふふっ、引っ掛かりやすいのね。こう言う悪戯、慣れてないの?」
 聯紗は面白そうに笑って自分のグラスの中を一口飲んだ。やっと落ち着いた扇は、彼女のその笑みを見つめた。
 面白そうに笑っている、けれど。
 一頻り笑ってから、聯紗は頬杖をついた。
「やっぱり君達は面白いわね。殊子ちゃんも居たら、もっと悪戯出来たのに」
「……その殊子から、頼み事されてな」
「頼み?」
「何があったか話してみろよ。聴いてやるから」
 少し目を見開いて、髪を掻き上げて、それから聯紗はそっと息をついた。
「父親が、今日母親に逢うから一緒に来いって」
「どうして行かなかったんだ?」
「まだちょっと、ね。今逢ったら押し倒して殴っちゃいそうで、断ったの。州透は行ったけど」
「押し倒して殴るって……また物騒なこと言うよな、あんた」
「今はほんの少し受け入れてる。でもまだ駄目。ほんの少し、心を許しただけ。どうしてこんななのかしらね。受け入れたいのに、何処かで拒否してる」
 聯紗は哀しげに笑いながら、グラスをゆっくりと揺らした。からからと、中の氷が回って鳴った。冷たいその飲み物。溶けて行く氷。そうまるで人のようだ、誰かに心を許すように、秘密を打ち明けるように。
 溶けて行く。
 その人に。
 聯紗はまだ、母の本当の氷になれないのだ。溶ける事の出来ない偽りの氷だ。
「多分紹介ね。州透、多分母親の事何も覚えてないから。離婚した時、州透、四歳だったから。私は五歳だったから辛うじて少し覚えてるんだけど」
「……俺は何歳かな」  その前に沈黙があったのは扇が思い出しているからで、本来ならば忘れる事のない事なのに、けれど忘れかけている苦すぎる思い出。
「もう大分前で、姿だって覚えちゃいないよ」
 只扇はクニカから聴いている事だけで、母親の像を造り出しているだけに過ぎない。彼女が穏やかで料理好きだった事、夢の管理人としても優秀だった事、過去クニカと組んでいた事、身体特徴。そんなものだけで、扇は母親を組み立てていた。
 それは殊子も同じ事で、しかし殊子は両親を亡くしていたから自分と同じくクニカから聴いていた。クニカは妻を殺したも同然の殊子に、それでも優しく接した。まるで何事もなかったかのように。そしてそれを扇も殊子も明確に覚えていなかったから。
 けれど扇の胸に強く残る思い。それは、自分の不甲斐なさ。
「ま、どうだって良いけどな」
 言って扇は新聞を捲った。がさりと堅い音が響いた。
「あの……無礼だって事は解ってるけど。聴かせてくれないかしら」
「何?」
「殊子ちゃん……何があったの? あの日の君、凄く怒ってたから」
 扇は少しだけ目線を上にやった。聯紗の黒い瞳は真剣だった。
「別にあんたに怒ってたんじゃない。俺に怒ってたんだ」
「それ程迄に自分を責める理由?」
 言おうかどうか扇は少し迷い、けれど殊子と仲の良い彼女にならもう話しても大丈夫だろうと思った。それに、聯紗はそれを聴いても殊子との間に距離を置く事はないだろう、とも思った。
「まだ子供の頃さ。ちょっと危険な場所に殊子と一緒に行った事があったんだ。帰る途中に俺の両親に見付かって、走ろうとしたら脇にあった壊れかけの建物が崩れた」
「危険って……壊れそうな建物の場所って意味なのね」
「お伽噺を信じたんだろうよ。古い塔の中には山のような財宝、小さな妖精……」
 扇自身、それを明確に覚えている訳ではない。全てはクニカから聴いた事。
「殊子がそれの下敷きになりかけた時、母さんがそれを庇って――」
「……」
「だから殊子は自分を責めてる。言い出しっぺが自分だから、自分が悪いんだ、自分が母さんを殺したんだって思い続けてる……外れてもいないけど」
 只一つだけ覚えているのは、それから何ヶ月か、殊子がずっと元気がなかった事。まるで起きながら夢を見ているような、心だけが何処かへと逃げ出してしまったような。
「あいつの両親、その時はもう死んでたから。自分と関わった奴は死んでいくって、そう思ったのかも知れない……」
「でも殊子ちゃんだって夢の管理人でしょ? 人を助けてるじゃない」
「最初はそれを拒んでたよ。嫌だって、資格なんてないって。けど俺達はそうやって生きるしかない。でもそれが良かったのかも知れない。あいつはそれから、人の役に立てる、それだけで凄く幸せそうにしてた」
 それは温もりのように、心臓の鼓動のように、常に感じていなければならないかのように、殊子はずっとそうやって自分自身を戒め続けてきた。それだけが彼女をこの現実に留まらせる鎖だった。誰も失いたくない――その思いは無論扇にも向けられていた。だからこそ、彼女は扇を庇ったのだ。
「あの時今みたく、ちゃんと物事を判断出来て……あいつを護れる位に力があれば良かったんだよな」
「……きっと誰も君を責めない」
 聯紗のその静かな言葉に、扇は頬が熱くなった。
「あんたに何が解るって」
「解らないわ」
 きっぱりと、聯紗が扇の怒鳴り声を遮った。からん、と溶けて丸くなった氷同士がぶつかり合って音を立てた。
「……そう。解らないわよ、何も。だって私はその場に居なかった。普通の人間で、そんな辛い思いもした事がないし、それに何より君でも殊子ちゃんでもないから」
 低く、けれど優しく聯紗は言った。
「でも、誰も君を責めない。勿論殊子ちゃんも、ね。それは解るわ。だって私達、確かに違うけれど、失ったものを取り返す事なんて出来ない事は一緒でしょ」
「…………?」
「だから返せなんて言っても無駄でしょ。そんな夢のような話に乗って誰かを責めるなんて、そんなの現実逃避だわ」
(ああ……、――そう、か)
 ゆっくりと、しかし確かに、扇は心にその言葉を浮かべた。
 責める事で失ったものが帰ってくるだろうか。取り返す事が、出来るだろうか。彼等は解っていた。激しく叱り過ちを深く心に刻みつけるのではなく、包み込むようにその傷を癒す事で悟らせたのだ。過ちを。
 それはまるで甘すぎる毒のような微睡むような優しさ。
 心をすうっと通り過ぎるようなチャイムが、二人の耳に入り込んだ。
「相方さんが来たのかしら?」
 にっこり笑って聯紗が問う。扇は新聞を畳み、一度目を伏せ、笑ってみせた。
「ああ。そうみたいだ」