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 マンションに帰ってから殊子は眠り続け、夕方頃になってやっと起きてきた。
「おう。平気だって言ってた割に、良く寝たな」
「寝ちゃったんだよ! もう本当に大丈夫だよ!?」
「解った、解った……良し、上出来」
 最後の味見を終了させて、扇が満足そうに言った。面倒臭いと言う理由から扇は家事を余りしないが、別に嫌いな訳ではなかった。何となくやる気が起きたらやる。
「あ、ごめんね夕食やらせちゃって!」
「良いって別に、お前病人だろ」
「病人? ……わたし、病人なんだ?」
「少し違うか。まあでも、似たようなもんだろ。それよか、見ろよこれ」
 扇に手招きされて、殊子はキッチンへ向かった。やる気がある時の扇の料理は、普段の殊子の料理に勝るとも劣らない。
「うっわー、クリームシチューだあ!」
「ちゃんとホワイトソースから作って長時間煮込んで、手間暇かけたんだからな?」
 杓子で何回か掬った後、きらきらとした目で見つめてきた。扇は面白そうに笑って、
「ちょっと早いけど、食う?」
「食う! わたしお皿取ってくるね!」
 クリームシチューは殊子の好物だ。地球にしかないのを本当に恨めしがる位。だから彼女は、一ヶ月に一回は必ずシチューを作る。それが真夏であろうとお構いなしに作る。暇な時はホワイトソースから、時間がない時はルゥを買って。それを作る時の彼女は何時も機嫌が良かった。幸せそうに手を動かすのだ。
 とろとろと、皿に盛られるそれを嬉しそうに殊子は見つめる。夢を見るように、欲しいものに手が届いた子供のように。
「扇ちゃんの料理すっごく旨いのに、どうして作らないの?」
「面倒だし……」
「うわー出たよ、得意の『面倒』。料理なんて簡単なのに」
「簡単でも面倒なんだよ。ほら」
「何で? 面白いじゃん」
 皿を受け取って殊子が返した。しかしそれがいけない返し方だったと、彼女は気付かなかった。扇は勝ち誇ったように笑って鍋に蓋をすると、
「面白いなら毎日やっても構わねえだろ?」
「きったなーい! ハメた!」
「誰もハメてねえっつの。お前がそう思ってるだけだろよ」
 それからパンを出してテーブルに置く。このロールパンも又、殊子が作るものだ。
 彼女の料理の腕は誰もが認める。何か秘薬でも入っているかのように、見栄えも味もその年齢からは考えられない程に。死んだ扇の母と殊子は仲が良かった、だからかも知れない――扇は何となく、そう思った。




 家のチャイムが鳴ったのは、食事を終えてから一時間後、六時を少し過ぎた頃だった。
 こんな夜に客人とは今迄に一度もなかった、扇は不思議に思いながら扉を開けた。
「――……」
 ドアノブを掴んだままの手が、暫く固まった。長めの前髪の奥に立っている人物を凝視して、何とか口を開いた。
「な……んで、あんた……」
 それでも出たのは、そんな情けない声だった。
「夜遅くに悪いわね。でも、この時間しか空いていなくて」
 キャミソールにチュニック、ブーツカットのジーンズ、ミュールと言う格好で、何時もは垂らしている茶髪を高くに結い上げた少女。小さめのショルダーバッグを肩に掛け、少し細めの双眸でじっとこちらを見ているその人物の名は、箕知聯紗。
「いやそれはお構いなく――じゃなくて!」
「お詫び」
「へ? ……うおッ!?」
 腰の後ろにやっていた右手をずいと扇の顔の前に出す。その右手から吊されていたのは、小さな紙の箱。一目でその中に何が入っているか、想像が付いた。
「有名な店のだから美味しい筈よ」 「あのな、何だってお詫びなんて受けなきゃいけねえんだよ!」
「せッ先輩! どうして此処に居るの!?」
 濡れた頭にタオルを被せてワンピース姿の殊子が出てきた。頬を上気させて、片手にアイス、片手にタオルで頭を拭いている。
「お前はそう言う格好で出てくんなッ!」
「そんな事言われたって、今迄お風呂入ってたんだよ?」
「それでももうちょっと、こう、さあ……」
 聯紗は訳が解らず、突き付けたままの行き場を失った右手を暫し眺めていた。




「うううっ、美味しいぃ!!」
 夕食から一時間、まだ御機嫌らしく殊子はフォークを握り締めて眼を細めた。
「知ってる? 学校の近くにあるケーキ屋なんだけど、美味しいの」
「へえッそんなケーキ屋あるんだ。今度行ってみよッ」
 扇は慣れた手つきで紅茶を注ぐ。触らぬ神に祟りなし、女同士の和やかな会話には、首を突っ込まず密やかに彼女たちの手助けをするのが一番である。
「んーこのシナモン加減が溜まらない〜」
 しかし扇ももう限界で、紅茶をテーブルに置くと同時に、
「太るぞ」
と一言言い放つ。直後、殊子のスリッパ越しの踏みつけが扇の爪先に炸裂した。無言で痛がる扇を無視して、殊子はにっこりと聯紗に笑みを見せた。
「ありがとう先輩! でもお詫びなんて要らなかったのに」
「それなりの罪悪感、って言うのかしら。君にそれはなくても、私にはあるのよ。だからこれは、その罪悪感を少しでも減らす為の自己満足かもね」
「そんな……そんな事言ったら、わたしだって先輩にそんな思いさせたんだよ? だから」
「それじゃあ、私の話を聴いてくれるかしら? それで構わない?」
 やっと痛みが引いて顔を上げた扇は、不敵に、しかし優しさも秘めたその堂々とした笑みを見ながら心の内で感心した。
 見事な駆け引きだ。次々と投げ掛ける言葉、リズム、説得感。
「私が墨田区に居た訳、話してなかったわよね」
「……ああ。こっちも色々考えたんだけど」
 扇は殊子の隣りの椅子を引いて腰掛けた。
「隅田川の花火大会。まだ母親が居た頃、見に行っていたのよ。それを思い出してた」
「ああ。花火大会?」
「そういえばそんなのあったね、隅田川。そっか、だから墨田区だったんだ」
「あれだよな、テレビでやってたやつ」
「――ちょっと待って。君達、知らないの?」
 聯紗が言ってくるから、扇は焦って、
「まあそれは後で、……で? 思い出してたって?」
 確かに彼女は自分達が夢の管理人と知っているが、二日後に地球から姿を消す事も一年前から来ている事も知らない。知られても厄介だ。
 聯紗は扇の話を逸らしたがっている気持ちを悟ったのか、続けた。
「母親の面影ってやつ。思い出そうとして……そう。優しかったと思う。母親として相応しくないなんて、そんなんじゃなかったと思う」
「だったらどうして?」
 殊子が無邪気に訊いてくる。それに聯紗の緊張も和らいだのか、ふっと笑った。
「父親を取られたくなかったのかもね。一度別れて、それなのに又居座る――そんなのむかつくけど、それを真正面から受け止めてなかったのかもね」
 紅茶を一口飲んでから、聯紗はそっと目を細める。
「……結局子供なのよ。もう高校生だって言うのにね……」
「え、それっていけない事なのか?」
 扇がきょとんとした顔で即座に返す。聯紗が目を見開いて、口をぽっかりと開けている。殊子は何も言わずに頬杖をついていた。
「…………は、ぁ?」
 妙な沈黙がやっと正常に戻ったのは、それからジャスト四秒後。
「ら、藍是君? それってどう言う意味?」
「え? だから、ガキなのっていけない事なのか……って」
「そりゃそうよ。だって私もう十六だし、九月入って直ぐに十七になるのよ。君だってもう十七歳の誕生日、迎えてるでしょ?」
「ふーん。こっちじゃ強いんだな、あれが。何だっけ、自立心?」
「ええっ十六になったら一人で生きなきゃいけないの!? 大変、わたしもうすぐ十六歳だよ!」
 殊子が突然大声を出した。聯紗は二人との感覚が全く違う為(当たり前だが)、二人の言っている事が余り理解出来ない。
「あ、あの、そうじゃなくて。子供みたいな我が儘言ってたって意味。大人らしくしてなきゃって言うか」
「大人になったら我が儘言っちゃいけねえのか?」
「……そうでもないけど」
「大人になってもガキでなきゃ、世の中生きていけないぜ」
「…………えー、とーォ……」
 困り果てて、聯紗は眉根に人差し指を遣って唸った。
「自立するしないはどうだって良いとして、そうやって全部、『はいそーですか』って受け入れるのが大人か?」
「でも反抗したって……」
「今迄反抗してたのに?」
 聯紗は数秒考えるように視線を宙に彷徨わせた。それから結論を出した、
「じゃあ童心にでも返ってみようかしら」
と。