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 まるで音を立てるように、扇の身体の全てが一瞬で覚醒した。
「……っ!」
 噎せそうになったのを必死で抑える。人の夢に入り込む事は普通の人間には出来ない芸当だ。だから現実に引き戻される時、ほんの少し副作用が生じる。心臓が揺らぐような衝撃が、数十秒。しかしそれに構っている暇はなかった。
「こ、とこ……!」
 隣で椅子に座ったまま、机に蹲る殊子が居た。肩を何度も何度も上下させて、苦しそうに噎せている。扇はその細い肩を掴んで、何とか顔を上げさせる。
「だ、大丈夫だってば……少し、苦しいだけだって」
「そんだけ噎せて少しだと!? お前、強がんのもいい加減にしろ!」
 殊子は一瞬困ったように瞳を細め、それから少しだけ笑った。額に汗を掻いて、落ち着かない息で。それからずるりと机を伝い、椅子からがたんと落ちた。
「――殊子! おい、殊子!」
「……、……え? 此処……?」
 正面で聯紗が目を覚ました。まあ、そう言うのも仕方がない。眠らされた挙げ句、扇達の家のキッチンの椅子に座っていたのだから。
「箕知! ちょっと手伝え!」
「藍是君!? 何、何よ此処は何処よ!?」
「後で話す! とにかくこっち来い!」
「こっち? ……」
 立ち上がって扇の方へ歩いていくと、その足が突然止まった。
「殊子ちゃん……!?」




 薄い青の掛布に包まれて、今は少し落ち着いた呼吸で殊子は眠っていた。
「……ああ。そうね、言われてみれば……そう。そんな夢を見たわ」
 聯紗はまるで寝惚けたような、そんな口調で言った。
「覚えてたんだな、夢」
 言いながら、扇は殊子の額に濡らしたタオルを置いた。
「ねえ、どう言う事なの? あれは夢で、傷付いても何ともないんじゃなかったの?」
「……ああ。外傷は・・・
「外傷?」
「確かに幾ら傷付いても痛くないけど、普通に考えて致命傷なら普通に死ぬ。だから痛みがないのはその時だけって言うか……受けた傷は、そのまま精神に来るんだ」
「つまりこれは、精神に来たその、痛みって言うのかしら、それ?」
「簡単に言えば、な。トラウマ……とはちょっと違うんだけど」
 その苦しさを、扇は一度体験した事があった。まだ十歳かそれ位の頃。あの時は確か、殊子が今の扇の立場で。それから数日間、再び扇がそうなってしまうのが怖かったのか、彼女は扇の傍を離れなかった。今回彼女があの位置からどかなかったのは扇を護る為だ。そんなの解っている。きっとこれが原因で、殊子は扇を護ろうと思ったのだ。もうあんな怖い思いはしたくない、と、そう思ったのだろう。何となくそれは解った。
 負傷に関する仕組みを聯紗に言わなかったのは、怖がらせない為でもあるが、それより感染者である彼女を何より優先して護ることが使命だったからだ。だから彼女は傷付かない。だから、彼女には言わなかった。それだけだ。そして二人は、傷を負うことなく全て片付く自信があった。……まさかこんな結果になるなんて思わなかった。
「……どうしてこうなんなきゃいけねえんだよ……」
 傷付く理由、苦しむ理由。それが見当たらない。
 夢の管理人なら誰もが体験するだろうその経験を、どうしてそこまで重く感じ取ったのか。……原因は解るけれど、だからって庇うなんて。……きっとそう思う事が抑もの間違いなのだろう。彼女なら有り得る事だったのだ。それを心に留めながらも、何処かでそんなことは有り得ないと思っていた自分が居たのも間違いなのだろう。
「……私」
 聯紗が耐えかねたように口を開く。
「良いよ。あんたのせいじゃない。ちゃんと自分の身を護れなかった、俺が悪かったんだ」
『それ』が居る事を解っていた筈なのだ。
「もう、夕方だな。あんた、もう帰んなきゃマズいんじゃないのか?」
「でも……」
「大丈夫だよ。こいつなら直ぐに目覚める。……すぐそこに学校見えるから、道は解るよな。……家、遠いか?」
「…………、いいえ。歩いて帰れるわ」
 言われて聯紗もこれ以上言うのは悪い気がしたのか、渋々承諾。
「……藍是君」
「え?」
「私は何をするべきなの?『影』に勝つには、どうしたら良いの?」
 真剣な表情で、聯紗はそう言った。扇は少し考えてから、
「自分を見失うなよ。『影』に何て脅されても、自分のしてきた事は正しいって思え」
「――、解った」
 もう一度頷くと、聯紗は立ち上がった。長い茶髪がしなやかに揺れた。


 がちゃんと玄関が閉まった音がして、それを確認した数秒後、扇は長くため息をついた。
 直ぐに目覚める、なんて、どうして言えただろう。
 そんな保証、ないのに。
 それを今更噛み締めて、扇は更に恐怖した。
「どうして、避けなかったんだよ……」
 熱を出した時のように深く眠る殊子に、扇は静かに問い掛けた。
「俺なんかにそんな事したって、勿体ねえだけだろ?」
 眠る彼女にはその言葉は届かない。けれどだからこそ扇は語り続けた。
「お前だって解ってる癖にさ」
 こんな事を殊子に面と向かって言える自分、想像しただけで吐き気がする。
「俺に関わり続けたら……お前、きっとこんな苦しみじゃ――」
 だから聴いていない彼女に言う。
「済まされないだろ――?」
 そうじゃないのか? お前解ってるんだろ? 解ってて、それでも傍に居るんだろ? 親父に言われてるから。
 命令なんて、無視しろよ。命令と、命と、どっちが大事なんだよ。
 それが解らない程、馬鹿じゃねえだろ。
「それで本当に良いのか? お前は」
 答えは返らない、けれど扇は言えただけで充分だった。
 これを面と向かって言えたならどんなに良かっただろう。
 けれど言った時、彼女はどんな顔をしてどんな答えを返すのだろう。
 扇は再度一つため息をつくと、殊子の解かれた黒髪を軽く撫でた。
「……参ったねこりゃ。本当に苦しいのはお前の立場だと思ってたのに」
 何故だろう、こんなに泣きそうに苦しかった。
「こうしてる方が……何倍も辛いな」
 こんなに深く、もう二度と目覚めないような、そんな眠りの中にいる殊子。それを何も出来ずに、只見ているだけしか出来ない自分。
 あの時の殊子も、そんなだったのだろうか。
 もしも殊子の心情が今の扇の心情と同じなら、彼女が自分の立場だった時もこんなに苦しい思いをしたのだろうか。……きっと苦しかっただろう。だから彼女は今こんなことになっている。
 殊子は目を覚まさない。眠り姫のように安らかに眠っている。
 その日、扇は椅子に座って眠った。あの日、目覚めた時に彼女が居たように、そしてその時とても安心したのを良く覚えていたから。
 だから彼女も同じなら良い――そう思ったけれど、そんな事口に出せる訳もない、とも思った。




 寝起きの悪い扇は、一週間に一回、必ず殊子に起こされていた。
 そうやって寝坊ばっかしててどうするの、冷たい水で顔洗えば直ぐに目が覚めるよ、と言って。そのしっかりした様は、自分より年上なのではないかとも思う。
「……ちょっと、扇ちゃん! 起きてって!」
 肩を揺さ振られてうっすら眼を開けた扇の目の前では、ぼさぼさの髪をした殊子が居た。
 外はまだ夜の闇、眠ってからそう時間は経っていない。何気なく壁掛け時計を見ると、夜の0時を過ぎた頃だった。
「もう、びっくりした……そんな所で眠ってないでよ、ちゃんと部屋で寝なきゃ」
「こ――」
 彼女の名を言い掛けて、しかし驚きでそれ以上出なかった。本当は呼びたかった。けれど殊子はきょとんと目を丸くしていた。
「どうしたの? そんな顔して」
「お前……もう大丈夫なのか!?」
「だ、大丈夫って? 何?」
「何じゃねえよ! お前倒れただろ!」
「倒れた? あ、うん、倒れたね」
 さらっと答える殊子に、扇は苛立ちを覚えた。
「……ッざけんなよ!」
 扇は立ち上がり、殊子の両肩を勢い良く掴んだ。殊子の肩がびくりと上がった、けれど扇はそれに気付かなかった。気付く余裕もなかった。
「俺がどんだけ心配したと思ってんだ、それなのにどうしてそんな普通そうにしてんだよお前は!?」
「何……? ど、どうしたの、そんな」
「お前は早くあっちに戻った方が身の為なんだよ!」
 殊子が明らかに顔に恐怖の色を見せた。扇はそれに気付いて口を噤んだ。力を入れていた肩を掴んでいた両手をゆっくりと離して、息をつく。片手で顔を覆う。全身に心臓があるみたいに鼓動が駆け巡る。……普通そうにしていても病み上がりは病み上がりだ。そんな人物相手に目覚めて早々怒鳴り散らすなど、最悪だった。
「――…………」
 指の隙間から殊子を伺うと、彼女は立ち尽くし、俯いていた。両脇にだらりと下がった細い腕の先の掌を握り締めて。
 一瞬、泣くかな、と思った。けれど扇は密かにそれを期待していた。
 彼女は泣かなくなってしまったから。だからこれを機会に、泣く事を思い出してくれれば、と。しかし彼女は何回か瞬きをした後、扇を真っ直ぐに見た。顔を覆っていた手を離した。自分を直視する彼女の視線を遮るのは悪い気がした。
「ごめんなさい……わたし、酷い事、しちゃった……んだよね。……わたし、もう扇ちゃんがあんな苦しそうにしてるの見たくなかっただけなんだけど……自分勝手だった。そうだよ、扇ちゃん強いもん、わたしが庇ったりしなくてもあれくらい一人でどうにか出来たよね」
 違う。
 どきりと心臓が動揺した時、扇は数日前を思い出した。
 箕知にきれた時。
(そうだ……俺は――)
 俺は箕知に何を言った?


『あいつの哀しむ顔は、出来れば見たくない』


 そうだ。けれど。


『だから傷付いたような顔を見たくないし――』


 言ったけれど。


『傷つける奴も――』


 これは何だ? これは……何、なんだ?


『許せねえだけだ』…………


 扇は強く唇を噛んで、部屋を出た。履き慣れたスニーカーに足を突っ込んで夏の夜の暗闇に、飛び込むように駆けていった。
 殊子とは違ってずば抜けた運動神経の持ち主ではないし、走りが早い訳でもないが、走る事は好きだった。気持ちが紛れるから。逃げる為の手段。
 愚か者の逃げ道。
 街灯だけが闇を照らす、誰も居ない道。走りながら扇は唇を噛んだ。
 ――格好悪ぃ。
 箕知に言った言葉、けれどそれを自分自身が犯した。
 傷付ける奴は許さない。
 足は何故か小さな公園に向いていた。足を止めると、今迄気にしていなかった疲れがどっと襲ってきた。知らずに汗も掻いていた。幾ら夜でも夏は夏、少しでも走れば汗は出てくる。ベンチにどかりと腰を降ろして、空を仰ぐと温い風が、じれったくゆっくりと身体を撫でていった。
 視線の先には、強く光る三角を作る三つの星。
「ホントに許せねぇのは……俺じゃねえか」
 吐き捨てるように呟く。空気に解けて消える声。
(……そういえば)
 小さい頃はこうやって星を眺めていた。初めて地球に来た夜に星空を見て、それからこっちで見る事は少なくなったけれど。だって何倍もあっちの方が綺麗だと思って、殊子もそうだと言っていたから。
 まだあっちに居た頃は、星空を見よう、と誘われる事もあれば、誘った事もあった。隣り合わせの家の真ん中の広い庭、上を見上げれば何の苦労もなく輝くそれを見る事が出来た。けれど一人で見るのは気が引けて、見たくなったら声を掛けるのを約束にした。約束を決めたのはとても幼い頃で、けれどその意志は本物だった。誘い誘われ、それがどんなに真夜中でも互いにそれを気に止めなかった。純粋に、それが見たかったから。
 それが大好きだったから。
「……あれ?」
 扇は見上げているうちにふとある事に気付き、声を漏らした。
 マンションのベランダから見る空と、この公園から見る空は明らかに違った。
 ビルに遮られない、広い空。空以外に樹々しか見えない。
「同じ――、だ」
 そう、同じなのだ。あっちの空と。樹々と、空と。それだけの。切り絵のように、樹々のシルエットを切り取ったような。
「同じでしょう?」
 後ろから掛かった声に、扇は驚いて勢い良く後ろを振り向いた。
 この風景に囚われて、気付かなかった。何時もなら解っているから驚きはしないのだが。そんな扇の反応に殊子は首を傾げた。
 飛び出してきたのだろうか。背に流れる髪は緩やかな風に流れ、トレーナーにジーンズ、スニーカーと、普段の家での服なのにそこらにあるものを引っ掴んで着替えてきた、という感じがした。彼女は無表情で、どちらかと言えば哀しみを帯びた感じだった。扇は何となく目線を合わせていられなくて、顔を上にやった。
「……どうして来たんだよ」
 違う、こんな口調で言いたいんじゃない。
 そうは思っても、言葉は心に反抗した。
 殊子はベンチの背もたれに手を遣って、けれど表情はそのままで同じように空を仰ぐ。
「扇ちゃんの居場所、解るから。何処行っても繋がってるもの」
 指先で黒い頭をつついて殊子が少しだけ笑った。
「そんなん知ってる」
「……じゃ、此処は? 知ってたの?」
 そう言われるのも無理はない。誰も来ないような遊具もないちっぽけな公園なのだから。
「見付けたんだよ。今、偶然」
「そう。……わたしは知ってたよ。地球に来てちょっと後。真夜中に起きちゃって、何でかすごーくウーロン茶が飲みたくなってね。冷蔵庫開けたらなくって、でも本当に本当に飲みたくてね。買いに行ったの」
「何で一人で行くんだよ。聴いてるだろ、こっちじゃ夜中に女一人は危ないって」
「じゃあどうすれば良かったのかな」
「我慢するか俺を起こすかしろ」
 不思議だった。彼女が自分に、こんなに自然に話している事。追い掛けてきた事。そして確かに彼女に苛立っていた自分が、話しているうちに自然に戻っていく事。
「悪い気がして。だからコンビニで買って、何となくふらふらしてたら……此処を見付けたの。あっちそっくりの空が見える、この公園」
「……そっか」
 ふう、と吐息のような溜め息のような、殊子はそんな息を洩らした。
「怒らせて――ごめんなさい」
「…………」
「でもね。でも、扇ちゃん? わたしの事、心配しなくて良いんだよ?」
「え……?」
「クニカ様に頼まれたからって、クニカ様は見てないんだよ?」
 扇は彼女の方を向かなかった。只空を見上げていた。
 そしてその問いには答えず、
「約束、覚えてるか?」
「……約束……? 何の?」
「星空を見る時は必ず一人占めしない。見たくなったら互いに言って、分け合う」
 殊子は思い出したように、くすりと笑った。やっと笑った、と扇は思った。
「うん、覚えてる。はんぶんこにするの。小さい頃に決めたよね」
「それを律儀にずーっと護り続けてんだから、俺の方もそれを護んなきゃなんなくなっちまってさ。そんで今迄約束を破った事なんてないし」
「ううん。……ううん。違う。わたしずっと破ってきた」
 予想外の返答に、扇はつい振り向いてしまった。それから、しまった、と思った。見ないようにしてたのに。扇の心情を知らない殊子は不思議そうに扇を見つめた。
「何か扇ちゃん、さっきから変……」
「破ったって――それ、どう言う意味だ?」
「いやわたしの問い……まあ、いっか。えっとね。この公園、内緒にしてた」
「それってつまり、俺に内緒で此処に来て、眺めてたって事か」
「うん、そう。だって扇ちゃん、こっちに来てからもう星空見なくなっちゃったから。だから約束も、もう要らないかなって思って言わなかった……なんて、言い訳だね」
 ごめん、と詫びるように笑って殊子は言った。その微笑みは矢張り少し哀しげで、また胸が押し付けられる。けれど扇はそれを表情に出さない。きっとそれは彼女の闘いだった。扇には、その闘いを打ち消す行為になるかも知れないという怯えがあったのだ。
「……元気、出たか?」
「?」
「哀しそうな顔ばっか、すんじゃねえよ」
「ごめん」
「謝る理由もないって」
「うん、ありがとう」
 今度は嬉しそうに笑って、殊子は空を見上げた。
「でも――わたしが扇ちゃんの立場だった時、あったでしょ?」
「俺が初めて、親父について夢の管理人の仕事した時?」
 夢の管理人としての仕事は十歳になってからで、それ迄は普通の子供と変わりない。殊子より一つ上の扇は彼女より一年早く夢の管理人になり、初めてクニカと感染者の夢に入り込んだ時、油断が原因で傷を負った。これが、さっきまでの殊子のようになった原因だ。
「確かにとっても苦しいけど、でもわたしは、あの時の方がずうっと苦しかった。何時迄経っても扇ちゃんが目を覚まさなくて、不安で不安で……このまま死んじゃったらどうしようって、泣きそうになっちゃった」
 今思えば、殊子はあの時も泣かなかった。あれも我慢していたのだろうか、たった九歳の少女が。
 しかしこの時の扇は、そんな事考えていなかった。それよりも、
「何だよ。結局同じじゃん」
「へ? 何が?」
「や、別に? 特に深い意味はない」
 結局同じだったのだ、殊子と。考えている事は一緒だったのだ。
 何だか取り越し苦労をした気分になったが、溜め息は出なかった、それどころか笑えた。
「……何笑ってんの?」
「別に」
「あ、それで『別に』はないんじゃないの?」
 怒ったように口を尖らせて、殊子が反論する。
「とにかくもう帰ろうぜ。殊子はもう少し寝た方が良いぞ」
「やっだなー、もう平気だって!」
「駄目だ。」
 きっぱりと返す。それが我が儘のように聴こえたのか、殊子は苦笑気味に、
「解ったよ、お兄ちゃん」
「……それを言うな。痒い」
 昔そうやって呼ばれていたのが、今になって気恥ずかしくなってきた。