[3] Countdown=Yourdreams
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「ねえ……それで、何処に向かっているの?」
 不安そうに言う聯紗の声に、扇は横を向いて彼女の表情を見た。もうこれは夢、と割り切ったのだろうか、自分達を疑うような顔付きではなかった。
「『影』の所へ、だよ。さっきも言っただろ?」
「そうじゃなくて。『影』って何なのよ、ナイトメアみたいな存在って言ったって、今一良く解らないわ」
 二、三歩先を歩いていた殊子が振り向いて、
「つまりは……そう。人の心に忍び寄る『悪』ってやつかな」
「『悪』――」
 発音や意味を理解するかのように、聯紗がその言葉を繰り返した。
「それが完全に感染者を支配すると、とんでもない事になるんだ。だからその前にわたし達が『影』をやっつける、って言うのが一番解り易いかな?」
 殊子は聯紗に言われた通り、敬語を使うのをやめていた。
「確かにぶっ潰すのは俺達だけど、あんたもちゃんと自分の意志を持ってろよ」
「……?」
「俺達は夢の管理人だから、特別な力を持ってる。けど此処はあんたの夢の中で、あんたのものなんだ。それを忘れるな」
 聯紗は一瞬訳の解らないような顔をして、しかし直ぐに頷いた。
「ああ……あと、夢の制約もな」
「制約?」
「ほら、夢の中で起こる事、出来る事。現実では有り得ない事もこっちじゃ出来る事」
「例として、怪我しても痛くなかったり、やっぱり此処は夢だから本体は何ともないの。まあ、血は出るんだけどね」
 あはは〜、と殊子は気楽に笑う。それに重みを感じていないのは結構だが、これは少しあれじゃなかろうか、と扇は思った。
「……それで、結局何なのよ」
 聯紗が問う。扇と殊子は揃って顔一杯に「?」を浮かばせた。……言い方が遠回しすぎたらしいので言い直す、
「私達はこれから何をするの? って言うか、『影』って何なのよ、具体的に」
と言い換えた。
「『影』は、何て言うか……解り易く言うと、悪魔だな。人の心の隙間に入り込んで支配する悪魔。だから俺達は感染者――ええと、感染者ってのは、その『影』に支配されつつあるあんたみたいな人の事で、まあ差別用語みたいに感じるかも知れないけど実際感染みたいなもんだし……あれ、話ずれたな。何処まで話したっけ」
「『影』の正体」
 殊子がすかさず答える。流石幼馴染み、息がぴったり。
「そうそう。で、その感染者の夢に入り込んで『影』をぶっ潰す。そうすれば感染者は助かるって訳。単純に言えば、悪魔を退治する正義の味方ってとこだな」
「でも扇ちゃんは正義の味方ってよりもダークヒーローって感じ」
「……まあダークヒーローってのも流行りだしな。悪かねえけど……何かなあ」
「だって扇ちゃん、お世辞にも天使だなんて――」
 殊子は言い掛けた言葉を急に飲み込んだ。けれど彼女はその理由を言わない。それは扇も解っていると、知っているからだ。
「……来たか」
 だから扇もたった一言、そう返す。殊子が鞭を片手に、右足を前に出して腰を低くする。
「適当に倒しながら走るしかないかなあ」
「だな。俺が粗方片付けるから、後はどうにかしろよ」
 扇は右手に意識を集中させて目を閉じる。……俺の持つこの力は傷付けるものでしかなくて、例えば殊子の鞭なら誰かを助ける事も出来るだろうに、けれどこの力では傷付けるばかりで。それでも俺はこの力を使って闘う。傷付ける為の力が、誰かを助ける為の力になるように。
 双眸を開いた瞬間、身体中の血がざわめく。それをシグナルに、
「行けッ!」
 殊子と聯紗を促した。
「先輩、走って!」
 殊子が聯紗の手を引いて、前へと駆け出した。
 途端に暗闇から何か怪物のような、そんな形の黒い物体が湧き上がる。聯紗は一瞬足を止めようとして、しかし止める方が恐かったのか手を引かれるまま前へ走った。  走りながら、どうして殊子ちゃん(と聯紗は呼ぶようになった)は怖がらないのだろう、と思った。慣れているから、仕事だから。そうかも知れない、でもこれは藍是君を信じているから、そう、今の世界では有り得ない程に、自分の命を賭ける程に信じているんだ。
「…………」
 聯紗は心が落ち着かず、背筋がぞくりとしたのを感じた。今の状況に、ではなく、それ程までに扇を信じる殊子に。そして恐らく、彼女と同じく殊子を信じる扇にも。恐怖を覚える程に。しかしそれが、彼等が自分達とは違う事を如実に表していた。
 本当に彼等は普通の高校生ではなかった。
 本当に彼等は、普通の人間ではなかった。
「こ、殊子ちゃん! このまま走ってたらッ……」
「大丈夫! 信じて、此処は夢の中なの! 現実じゃないよ、ほら、恐くないって思えば恐いのなんてどっか行っちゃうよ!」
 夢の中。すっかり忘れていた。そういえば走っているのに全く疲れない。心なしか早く走れているような気さえした。
「先輩、しゃがんでッ!」
 そんな事を考えていると、いきなり殊子に頭を押さえられ、強制的にしゃがませられた。と、左側から光が一直線に頭上を通り過ぎていった。
「……え……」
 言葉にならない言葉が、聯紗の唇から漏れた。
 光が黒い物体を掻き消す、暗闇にほんの数秒眩い光が飛び散り、しかし直ぐに暗闇へと引き戻される。
 掻き消され、粉々になったその『黒』は、灰のように辺りに飛び散った。
「扇ちゃん、今日も絶好調だねっ」
 殊子が立ち上がってびしっと親指を立ててウィンクした。少し猫背で歩いてくる扇も又、優雅に片目を伏せて口のラインを緩やかにカーブさせた。
「ま、俺に掛かればこんなモンよ」
「あはは、目には目を、化け物にも化け物をー」
 可愛い顔をして殊子がさらっと毒舌っぷりを披露した、が扇も怯まず、
「ああ、それじゃお前も化け物だな。よし切り込み隊長、行ってこい」
「はーい、ボス!」
「誰がボスだ!」
 けれどそんな扇の言葉をシカトして、殊子は軽やかに前へと駆けていく。
「……何なのよ、今のは」
「まあ、なんつーか……説明も面倒だから、ゾンビとか悪役吸血鬼とか思ってろよ」
 駄目だ、非現実すぎてる。ホラー好きだからこその例えなのだろうけど。
「そいつ等を倒す為の武器があってな。あいつは鞭、俺は魔法。人の夢を護る俺達に与えられた闘う力だ」
「魔法……?」
「だから此処は夢の中だってば。所詮夢物語だよ。さっき落ちてきたあんたを助けたのも俺の力。……とにかく、あんたは心配すんな。あんたは俺達がちゃんと助けてやるから」
 頷いて良いのかいけないのか、と言うように聯紗は微妙な顔の動きを見せた。
「扇ちゃーん、意外と大丈夫そうだよ?」
 少し遠くで殊子が言った。彼女は先の様子を見に行っていたのだ。
「大丈夫そうって……そんな事があるのか?」
「だって何もないもん。取り敢えず『影』には近付いてるから……、!」
 駆けてくる殊子の表情が険しくなって、同時に鞭で扇の右手を絡め取った。
「うおッッ!?」
 当然引っ張られて、扇は思い切り顔面を地面にぶつけた。その頭上を何かが通り過ぎていった、けれど扇にはそれがどんな形のものか解らなかった。
「殊子! てめえ人を乱暴に扱うなって……」
 小気味良い音がして、殊子に向かっていた黒い物体が消えた。鞭をぱしんと地面に叩き付けて、息をつく。その様はとても凛々しい。まるで戦場の女神のような。
 女神は笑いながら、扇の前にしゃがんだ。
「全くもー、扇ちゃんは手間掛けるんだから」
「あんなモンお前に助けられなくても避けられたッつの!」
「負け惜しみ言っちゃってさー……」
 けらけらと笑うその声が途切れると同時に、奇妙な音がした。


「――――…………?」


 その瞬間、全てが、そう、空気の流れも動きも心臓の鼓動も呼吸も、全てが。
 止まった。……ように、感じた。
 耳を失ったように何も聴こえない中、ぱたぱたと雨粒が落ちるような音が響いて鼓膜を震わせた。
「ほんっとに、手間かかるんだから……駄目だよ、扇ちゃんは魔法に頼りすぎて、接近戦じゃ殆ど何も出来ないんだから」
 唇の端から微かな笑い声さえ漏らし、彼女は言う。
 暗闇の中でその朱が、酷く栄えた。
「……殊子!」
 小さな身体がふっと前に倒れる。素早く上半身を立たせて、その肩を掴む。聯紗は青ざめ、口を押さえて震えていた。
 扇が肩を掴んでいた両手のうちの右手を、その物体へと向ける。放たれた光に、『それ』は闇にはじけ飛んだ。
「おい、殊子!」
「そんなに焦んないでよ、痛くないんだからさー。わたしの心配するなら、『影』が近付いてる事くらい気付いといてよ」
 殊子は扇の腕を掴みながら、軽く笑った。声こそ余裕があったが、背は朱に染まり、雫が落ちて暗闇に斑点を作り上げた。
「大丈夫、ちょーっと怪我しただけ……あ、れ?」
 立ち上がろうと殊子が膝を持ち上げると、その身体がふらりと傾いて扇の身体に凭れた。
「何だろもー、身体に上手く力入んないや……これが、血を流し過ぎってやつかな?」
「…………!」
 聯紗が顔を歪めて頭を両手で押さえた。痛々しい息を吸う音がする位息を吸って。
「あああああぁァッ!」
 叫ぶ。声の限り。扇がその声に反応して、
「馬鹿っ、取り乱すな!」
 声を掛けるが、遅かった。周囲に存在していた黒い影が夢の持ち主――聯紗の心の揺らぎに強く反応して、ざあっと取り囲む。目には見えないけれど扇にはそれが解っていた。解りすぎる程に強く、その波動を全身に感じた。
「くそ……!」
 殊子は動けない、夢の持ち主聯紗は不安定。これ以上、続ける訳にはいかない。
「箕知、来い!」
 殊子の身体を支え、扇は聯紗の腕を引っ張った。その瞬間、三人の身体が白くなり、そして消えた。
 そう、正しく何もかもを。風景も人も、存在するもの全てを『白』と言う無に返す。
 そこで夢は、一旦終わりを告げた。