3


 川の向こう側から流れる温い風が、聯紗の頬を撫でるように打つ。
 手摺りに手を掛けて、何処に目をやる訳でもなく、只立っている。
 どうして……私は、此処に居るんだろう。学校に行けば良いのに。無断で欠席したのはこれで何度目だろう。それでもお父さんも州透も何も言わないけれど。
 あの日、目の前に壁のように立ち塞がった人混みの中、ざらざらした、それでいて暖かな手に引かれて。
 ふわりと身体が宙に浮いて、何かと思ったら急に背が伸びた気分になった――肩車。
 隣では見下ろせるようになったその人物が、眠ってしまった可愛い弟をおぶって、優しく微笑んでいた。そう言えばその頃にはもう、彼女の手首には幾筋かの傷痕があったのをその時思い出した。その頃はまだ、その傷の意味を知らなかった。
『ほら、聯紗。始まるぞ』
 下の方から聴こえた声に、ぱっと顔を明るくして上を見上げた。真っ暗な中に輝く星空。けれどその星空よりもっと明るく盛大に、華が現れた。
 幾つも、幾つも。何回も。
 その度に辺りから歓声が響いて。自分もつい、ほうっと溜め息を漏らした。
 体を震わす音に、州透も目を覚まして、一旦びっくりしたように目を見開いて、それから直ぐに笑みを見せた。
『おねえちゃんっ、凄いねっ! ぴかぴかだよ!』
 ああ、そう。その時はまだ、『おねえちゃん』と呼ばれていたっけ。
『また見たいね!』
 そう言ったのは誰だったか。
 ああ、そう――それは――私、だ……。


「……箕知!!」
 耳に飛び込んできた声に、聯紗は肩を跳ね上がらせて振り向いた。
 一人は赤みがかった茶髪、もう一人は真っ黒の三つ編みおさげ。二人共方を上下させて、額に汗を浮かばせていた。当然だろう、この暑い中を走ったのだから。
「おい、あんた、どうして、こんなトコに居るんだよッ!」
「そうですよ! 学校に来てなかったから、休みかと思いましたよ!」
「ちょ、殊子……何でそんな、直ぐに回復、してんだ……?」
「だからわたし、走るの得意なんだってば。いや、そりゃ疲れてるけど」
 殊子が疲れたように肩を上下させていたのはほんの数十秒。扇は、彼女の体育関係に優れ(すぎ)た身体を恨めしく思った。「疲れてるけど」、と言ってはいるが、自分程疲れているとはとても思えない。
「……どうして私が此処に居るって、解ったの?」
 聯紗が開口一番、問う。訊かない方がおかしいが。
 扇はちらりと殊子を見遣る。殊子は扇を同じように見返す。彼女もどう返したものか、と思っているようだ。
「それはひとまず置いといて……だな。あんたもどうして此処に居るんだ? どうして学校に来ないんだ?」
「それは……ちょっと学校に行く気分じゃなかったのよ」
「変な夢のせいで?」
 汗で濡れた前髪を弄りながら、扇は近くのベンチに勢い良く腰を降ろした。上半身を前に傾けて、地面に向かって長く息を吐いた。それから顔を上げて、
「言い方を変えるよ。何か不快な夢を見ていないか?」
 聯紗は紺のベストを軽く握って、
「……不快と言えば不快ね。ええ、見るわ」
「そうか。なら話は早い、その夢の言いなりになるなよ。絶対」
「又お伽噺?」
「馬鹿にしてっと、後で泣くのはあんただ」
「ちょっと、扇ちゃん!」
 殊子が止めようとするが、扇は手で彼女を制す。殊子は口元に手を遣って、不安そうに扇と聯紗を交互に見た。
 聯紗は暫く扇を見下ろしていたが、ふっと笑った。それから言った。
「父親がね。昨日言ったのよ。母親と再婚するって」
「――…………な、んだって?」
「信じられないでしょ? 本当にあの二人、縒りを戻したのよ」
 茶髪を耳に掛けながら、聯紗は続けた。
「何時頃再婚するのかは知らないわ。でも昨日、余り寝付けなくてね。だから考えたのよ、この先どうするか……簡単だったわ。相手が居なければ良いのよ」
 殊子がびくりと肩を震わせた。彼女は自分より波動に敏感だ。特に、『影』に支配されつつある者に関しては。負の波動に関しては。
「先……輩?」
 やっとの思いで彼女は呟いた。
「愛した人が死ねば、これ以上ない程嘆くでしょう? これでお父さんはもう再婚しない、これに怯えて誰かを好きにもならない!」
「おい、箕知!」
 扇は彼女の異変に気付いて立ち上がった。
 殊子の言っている事は当たっていた。
 聯紗は、明らかに『影』に飲み込まれ始めているのだ。
 しかしそう解った所でどうしろと言うのだ。
「……違う」
 横で殊子がぽつりと言った。
「そんなの違う。違うよ!」
 止める間もなかった。殊子が聯紗の前に駆け寄って、その肩を掴んだ。
「先輩、お父さん大好きなんでしょ? 幸せになって欲しいんでしょ!? だったら、お父さんが大好きな人が死んだら、お父さん哀しむよ! それで良いの!?」
「ええ、哀しむわ。でもそれが私の狙い」
 冷ややかに、綺麗な冷たい笑顔で、聯紗は何ともないように返す。
「塞ぎ込むのはほんの一時よ。忘れはしないだろうけれど、それで死ぬ程人間は弱くない」
「確かにそうかも知れない。けど……そうやって言ってる先輩は弱いよ。強くなんかない!」
 断言してから、殊子は両手を降ろした。
「人は強いよ。大切な人が死んで、それでも生きていける程、強い。けど、だけど! 立ち直れるけど……その傷は一生治らないよ。先輩はそれを知らないんだ!」
「何が解るの! 大切な人が死んだ場面でも見たような言い方して――」
「見たよッ!!」
 強く言い放つ。正直扇は彼女がこんな事を言うとは思わなかった。
 こんな会話、彼女の哀しい過去を思い出させるだけなのに。
 ……止めに入るべきなんだろうとは思う。けれど足は一歩も動きそうになかった。泣きそうに歪んだ殊子の顔は唇を噛み、少しだけ俯く。
「……ごめんなさい、先輩。わたし達が必ず助けるから……」
 殊子は静かに言ってから、ポケットに手を突っ込んで小さなスプレータイプのボトルを取り出す。聯紗の顔に向けてそれを放つ。軽い音がして霧状の液体が噴き出された。数秒後、聯紗は殊子に身体を支えられていた。
「殊子、お前それ持ち歩くなよ……」
「だって貰ったからには何時も持ってなきゃ。それに役立ったでしょ?」
 にこっと笑って、殊子は透明な液体の入ったボトルを扇に見せた。
 殊子が持っていたのは、地球に来る時にクニカから貰っていた催眠スプレーだった。全く使った事がなかったから利くか不安だったが、効果は抜群だった。
「で、どうするんだ?」
「え?」
「こいつを落ち着かせるには眠らせるしかなかったけど……これからどうする? 眠っちまったこいつを抱えて電車に乗るのか? 俺がおぶって、マンションまで連れてくしかないだろ? 注目の的だぜ」
「……あ」
 考えてなかった、と言う表情で殊子が言うから、扇は長く溜め息をついた。




 落ちている。
 未来島さんに肩を掴まれて。怒鳴り返して。
 スプレーを向けられて。
 それからどうしただろう。
 けれど、今解る事は。
 私は、落ちて、いる。
 聯紗は虚ろに開けていた瞳をゆっくりと閉じる。何時終わるか解らない、この落下に身を委ねて。この先どうなるかなんて考えていなかった。何処かにぶつかって死ぬかも知れない、そう思っても不思議と落ち着いていた。
 しかし、その落下は急にぴたりと止まった。足が勝手に暗闇にぺたんとついた。衝撃はなかった。結構なスピードで落ちていたような気がするのに、一気に減速した身体は負担を一つも感じなかった。
「さっすが扇ちゃん! コントロール巧いね〜」
「当然」
「…………」
「先輩、立てますか?」
 殊子はにっこり笑って手を差し伸べる。聯紗は取り敢えずその手を取って立ち上がった。
「私……?」
「まあ、覚えてないだろうな。でも安心しな、此処は現実じゃない」
 扇の言葉は、妙に落ち着き払った言い方だった。まるで慣れているような、そんな感じだった。実際慣れているから、なのだが。けれどそんなものに全く面識のない聯紗には、その言葉の意味が今一理解出来なかった。
「現実じゃない? この世には現実しかないじゃない、何を寝惚けた事言ってるのよ」
「……あんたは何時も現実に居るのか? 眠っている時は夢の世界に居るだろ。『寝言は寝てから言え』ってのは、寝言を言うべき場所は現実じゃないってことだ」
 呆れたように扇が返す。
「良いか? 此処はあんたの夢の中だ。俺達は、あんたに近付こうとしてる『影』を排除しに、あんたの夢の中に入り込んだんだ」
「って言っても納得出来ませんよねー普通」
 苦笑気味に殊子がそう付け足した。
「でも証拠があるんです。ねえ先輩、夢の中なら強く思えば出来る範囲なら出来ちゃうんですよ? さっき先輩の落下を止めたのも扇ちゃん特有の力です」
「出来る範囲って……」
「あっ、でも先輩は普通の人間だから、そういうの出来る範囲がすごーく狭いんです。速く走るとかは出来ますけど、余りに非現実なことはちょっと」
「その言い方って、俺達が変人みたいな感じだな……」
「え、そうじゃないの?」
 けろりと殊子が言うから、扇は返す言葉がない。自分で自分を変人と認めてどうする。
「だって地球の人達から見れば、わたし達ってある意味化け物扱いじゃない」
「いやま、そうだけど」
「特に扇ちゃんの力なんかは、わたしの数倍化け物扱い」
「……確かにそうだよな……お前の力は俺と比べりゃまだ現実的だ」
 と、そこ迄言って、ふと思う。
「――どうしてそれを認めてんだよ俺は……」
「認めちゃったらお終いだよ。認めなきゃいけないけど」
 言葉が矛盾している事を彼女は解っているのだろうか、多分解っていない。
「待って! じゃあ二人共、何者なの?」
 聯紗が焦ったように問う。
「お察しの通り、わたし達は地球人じゃありません。『影』に狙われた感染者を助ける役目を持つ、夢の管理人ドリームマスターと言う種族の人間です」
「おい、俺達人間って言えるのかよ?」
「えっと……この力以外は人間だし……一応他の生物にもなれるけど、ベースは人間だし……」
 余りにも非現実的な事をさらりと言う二人を前に、身体がずしりと重くなった気がした。聯紗は瞬きも億劫な位に瞳を見開いて二人を見つめた。
「信じるとでも思ってるの!? そんなの!」
「信じてくれなくて結構さ」
 柔らかな赤みがかった茶髪を手先で梳きながら、扇が言った。
「この夢は俺達が『消す』からな。夢って言っても、良く覚えてる夢と覚えてない夢があるだろ? この夢は覚えてない夢にさせる。だから感染者は何一つ覚えてない」
「覚えてないから、誰もわたし達の正体を知りません。こうやって話してる事も、この体験も、先輩が目覚めたら全部忘れちゃいます」
 何処か哀しげに殊子が言った。
「……それで君達は、寂しくないの? 誰かに逢う度に否定されて、哀しくないの?」
 すると殊子はゆっくりと頭を横に振った。微笑みながら。
「確かに少しだけ。でもそんな事、言ってられないから」
 扇は殊子の笑った顔を、多分誰よりも多く見てきた。楽しそうな笑顔、嬉しそうな笑顔、そしてこんな、切なげな哀しそうな微笑みも。そんな笑顔の全ては殊子のもので、何時だって殊子の心を如実に表していた。扇は彼女の笑っている顔を見るのが好きで、けれど哀しげな微笑みを見ると急に胸が押し付けられた。
 彼女は過去を膨れ上がらせないように必死に押し潰すと同時に、涙も又無限の大きさの涙の池へと連れ込んでいる。何処迄も何処迄も深い、その池。どれだけ湧いても決して溢れない泉のように深い池に、涙を連れ込み、流し、閉じ込めていた。
 だから泣くべき時にも泣けなくなってしまった。瞳が潤んでも必死にそれを自分の池に押し戻すのだった。
 まるで自分への戒めのように。彼女の双眸からは甘い粒が流れる事はない。
「まあ、それは置いといて、行きましょうか」
 殊子は宙で何かを掴むように手を握った。するとその手には黒い鞭が現れる。
「行くって……何処へ?」
「『影』の所へ、です。大丈夫ですよ、先輩の身は扇ちゃんが護りますから。ね」
 にこ、と笑って殊子は扇を見た。ずっと彼女の事を考えていた扇はその言葉で現実(と言うのも違うが)に引き戻された。
「あ、……ああ、そうだな」
「うん!」
 心からの笑顔、偽った笑顔。
 どれも彼女の思いの結晶。
 だからこそ大事にしたいけれど、しかし哀しみの結晶は壊したい程に憎い。
 胸の奥へ流れ込む、黒く邪悪な液体。それが身体を、心を浸食していくような。そんな感覚さえしてくる。
 矛盾した気持ち。
 これは一体、何だと言うのだろう。
 扇の心は晴れないまま、『影』の波動へと向かっていった。