[2] 薇仕掛けの小鳥
1


「そう言えば州透。今日、あんたの言ってた未来島さん、見たわ」
 聯紗は何時も真っ直ぐに流したままの茶髪を、首の後ろで無造作に縛っていた。机に向かっていた弟――州透は、ペンを走らせる手を止めた。
「どうして? そんな機会、良くあったね」
 姉に良く似た整った顔立ち、艶やかな黒髪。少し目が悪くてこういう時だけ眼鏡を掛けている。ひょいと眼鏡を取ると椅子を回転させて、自分のベッドに座って猫を撫でている聯紗の方を向いた。
「どんなだった?」
「しっかり者って印象を受けたわね。明るくて元気そう」
「そりゃそうだね。あの人運動神経凄く良いから。体育祭じゃ、初参加で注目浴びそう」
「……でも」
 聯紗は顎に手をやって、低く言った。
「あの明るさ……少し、演技が入っているのかも知れないわ」
「演技?」
「そう、演技。確かにあの明るさは本物。でも時々、それが嘘に見えるの。何かを隠しているような。そんな」
「流石姉ちゃん、鋭い事言うね」
「合ってるの?」
「さあ? 直接逢って話した事ないから」
 聯紗の家は母親が居ない。離婚したからだ。小さい頃だったから余り覚えていない、けれどそれで良かったと思っている。別れる辛さを理解出来ないから。確かに少し位の面影は欲しいと思う。けれど覚えていたら、哀しくなる。そんなの嫌だ。




 聯紗の親に関することを聴いた扇は、少し考えた後に言う。
「……もしかして、それが原因か?」
「さあね、どうだろ。でも原因としては考えやすいね」
 切り分けたまま放ったらかしにしてあったバナナタルトを扇の前に出しながら、冷静に殊子が返す。
「そこら辺は詳しく聴かなきゃ解らないね。……て訳で、ヨロシク」
「何が」
「後輩のわたしが『最近何かありました?』とか、そんな事訊ける? しかも、離婚したって真実を、もっと詳しく探れる?」
「いや、同級でもそれは苦しいぞ。クラスも違うし、俺男だけど……」
「でも女だから訊き易いって訳じゃないよ」
 まあそうだけど。でもやっぱり女同士の方が良いだろ?、とはもう言えない。
 彼女がこうやってすらすら返す時は、決まって自分に軍配が上がらない。
 はあっと扇は溜め息をつくと、しぶしぶ承諾してバナナタルトにフォークを入れた。




 もうすぐ始まる、学校の広い校庭を使った花火祭り。
 クラスで一人役員を決めるのだが、殊子のクラスでは彼女が役員となってしまった。と言うより、彼女が自分からその役を買って出たのだ。
『だからちょっと今日は遅くなるんだ。箕知先輩もそう早く帰らないだろうし……もし待っててくれるなら、聴き出しとくもの悪くないんじゃない?』
 今朝にっこり笑ってそう言われた。取り敢えず午前中に廊下ですれ違った時に話を付けておいてあるから、後は資料室で適当な本を読んで待つだけ。
 そう思って扇が資料室の扉を開けると、聯紗は一人そこに座って何かを読んでいた。
「あら、早いのね、藍是君」
「こっちの台詞だ」
「私は教室に居ても暇なだけよ」
「お互い様じゃん」
 迷彩柄のバッグを置いて向かいの椅子に座ると、彼女の見ていた本が目に止まった。
「……それ」
「ああ、まだ一年のデータが頭に入っていなくて。あと一クラス分だけ、ね」
「何だってそんなもん覚えるんだよ」
「将来の為よ」
 聯紗はさらりと答えた。
「私将来、ジャーナリストになりたいの。だからそれの修行って所ね。記憶力の修行」
 将来。彼女を悩ます原因はそれなのだろうか。
「それで? 今日はどうしたの? 未来島さんも居ないようだけど」
「殊子は花火祭りの役員」
 全くこんな時に限って、と扇はつくづく思う。こういう事は苦手なのに。
「……あんた、母親居ないんだってな」
 殊子ならもっと気の利いた言い方をするだろうが、扇にそんな芸当が出来る訳もない。ほんの少し言葉を考えたが玉砕、結局こんなはっきりとした訊き方になってしまった。
 しかし、それが良かったのだろうか。聯紗の『心』が放つ波動が、急激に大きくなった。それを扇は逃さなかった。
 これで、確定した。
『影』に近寄られている原因は、これなのだ。
「私がまだ小さい頃に離婚したわ。母親の事も少ししか覚えてない」
「…………」
「ねえ、でも信じられる?」
 本を閉じると、聯紗は扇を真っ直ぐ見た。その口元には微笑、けれど自分自身を馬鹿にしたような笑い方。眉を少し曲げて。
「その母親が、父親とこっそり逢ってるのよ?」
「……え……?」
「笑っちゃうわよ。離婚した癖して、縒りでも戻そうとしているのかしら? 私にも弟にも何も言わないで逢っているのよ?」
 声は、思いは、どんどんエスカレートしていく。
「弟は何も知らない。知っているのは私だけ。見ちゃったのよ、あの二人が逢ってる所」
「でもあんた、母親をそんな覚えてないんだろ?」
「ええ、そうよ――覚えていないわよ!!」
 ばんと机を叩き、聯紗は叫びながら立ち上がった。二人以外に誰も居ないから誰も気に止めない、けれど誰も居ないからその音と声は普段より響いた。
「何十年と経った今でも変わらないものもあるわ。右耳の近くにある黒子だってそう。それに写真の中でのあの女の左手首にはね、傷痕があるのよ! 自殺しようとして作ったみたいな痕が! それが証拠よ! そんな条件が重なった人間、何人も居ると思う!?」
「……自殺?」
「そう決まった訳でもないけどね。でも、あの女が戻ってきたらどうするの? 縒り戻して、それから? 母親として、私達と暮らすの? 一緒に? 冗談じゃ――」
 ぱん!
 手を打ち合わせる音に、聯紗はぴたりと声を止めた。
「少し落ち着け、箕知」
 扇は叩いて掌同士を付けたままの両手をそのまま組んで、その上に顎を乗せた。
「……落ち着け? どうやって、落ち着けって言うのよ!」
「その女の事、何も知らないんだろ? 何をそんな憎んでんだ」
「知らないからよ! 母親の暖かさも、在り方も、知らないから! 今更母親になって何をしようって言うのよッ!」
 茶髪を振り乱して喚く。扇は息をつくと、静かに立ち上がった。目線をあわせて。
 彼女の心は矢張り不安定だ。そのうち一気に膨れ上がる。……「そのうち」とは、今の事を指しているのだろうか。
「何で弟に言わない? 弟にまで、そう言う心配させたくないから? 不安にさせたくないから? ――甘いんじゃねえか?」
「あんたには何も解らないわよ! 母親も父親も両方居る、恵まれた人間なんだから!」
 その言葉で――扇の心が、弾けた。
 右足で思い切り椅子の脚を蹴る。派手な音がして横に倒れた。聯紗がびくりと目を細め、それ迄の勢いをなくす。扇は机に手をついて暫く黙っていたが、
「居ねえよ。確かに親父は居る、けど母さんは居ない。もう死んでる。ガキの頃にな」
「…………あ……」
「俺の力がもっとあれば……助けてやれたかも知れなかったのに。殊子だってそうだ、もっと早くあいつをどうにかしてやれたのに! あの時から今みたくなってれば、力があったら……!」
 爪が樹造りの机に少し食い込んだ。
「未来島さん……? あの人が、どうしたの?」
 聯紗のその言葉に、扇は手の力を抜いた。それでも顔は上げないまま、言った。
「……殊子には、今の話、言うな。話題にも出すな」
 今更思い出す、矢張り彼女が居なくて良かったのかも知れなかった。
「あいつの哀しむ顔は、出来れば見たくない」
 バッグを掴んで倒した椅子もそのままに、扇は歩き出す。ドアノブに手を掛けた所で、聯紗は意を決してすうっと息を吸った。
「君にとって、未来島さんは『従妹』ってやつじゃないんじゃないの?」  直接どう言う意味かは言わないけれど、鋭そうな彼なら言わなくても解るだろうと思った。扇は理解したようで、けれど振り向かずに答える。
「そんなんじゃねえよ。あいつは俺の妹みたいなもんだ。……だから傷付いたような顔を見たくないし、傷つける奴も許せねえだけだ」 「それが妹に対する事? そんなに思っているのに、妹?」
「じゃあ言うけど。人を心配するだけで、そう言う対象で見なきゃいけねえのかよ」
 返事を待たずに部屋を出る。ドアからオレンジの西日が入り込んで眩しかった。
 躊躇いがちに聯紗が彼の背を見る。目を細めずにはいられない光に導かれたような背中。彼自身も、そのオレンジに染まっていた。もう一歩踏み出したら、彼の身体がその光と同化してしまいそうにさえ見えた。
 ドアが閉まる音がしても、聯紗は暫くドアを見て立ち尽くしていた。


『あの時から今みたくなってれば、力があったら……!』


 扇が掠れた声で言ったその言葉が、今になって頭の中で何度も響く。
 あの時? 今みたく? 力?
 何を言っているのか、全く理解出来ない。
 ……違う。もっと、もっと違う感じだ。
 彼は一体何者なのだ・・・・・・・・・
 この日本で生きる普通の高校生なのか・・・・・・・・・・・・・・・・・
 だが、今はそれよりも。
 聯紗は息をつくと、彼の蹴り倒した椅子を直し、本を片付けて資料室を出た。




 足早に校門を出て数歩後、ようやく怒りが収まってきてある事を思い出し、足を止めた。今日は家の鍵を置いてきてしまったのだ。どうせ聯紗との話は長くなるだろうと思っていたが、自分が席を立ったお陰で予想外に早くなってしまった。
「……殊子、待ってなくちゃ」
 しかしどうしよう、何処で待てば良いのだろう。
 仕方なく扇は何時も通る公園で待つ事にした。
 自動販売機で適当にジュースを買ってベンチに座る。
 少し落ち着いてさっき迄の事を振り返るが、そのせいで収まっていた怒りが再び身体を支配した。
 聯紗は何も知らない。だからあんな事を言った。なのについ喧嘩を売ってしまった。彼女は普通の、この世界で暮らす人間なのに。何か勘付かれたかも知れない。
 しかも殊子との関係を変な目で見られるし。彼女とは産まれた時からずっと一緒だったからこそ思い遣るだけであって、只それだけなのに。
 自分達の世界では、そう言う目で見られる事はなかった。改めて思い知る。此処は自分達が育った世界とは違うのだ、と。
(二重でやべえじゃねえかよッ!!)
 と思っても、もう後の祭り。
 ……しかしあんな別れ方をしてしまって、これからどうすれば良いのだろう。
 殊子があの場に居ればこんな厄介にならなかったのだろうが、あの場に居られた方がマズい。何倍もマズい!
 言ってしまえば扇の母親を死なせたのは殊子で、でもそのせいで殊子は。
「本当なら――憎まなきゃ、いけねんだよな……」
 母を死なせた幼馴染みであり、妹。憎むべき少女。けれど憎む事は出来ない。理由があるのだ、憎む事が出来ない理由が。
 彼女は自分の何倍も、苦しんでいるのだから。……今も。




 無人の教室に何となく足を運ぶと、ドアが開いていた。閉め忘れたのだろうか。入ると直ぐに西日が入り込んで、さっきの扇を思い出す。
(母親が死んだ事に未来島さんが関わっていて、それのせいで未来島さんは……?)
 一体何の話なのだろう。彼女の何処がどう、と言う感じは全くしないのに。彼女の両親が他界し彼の家が引き取った。そこまでは知っている。だが、それにしては少し重たい。彼女の両親の他界に、彼が、もしくは彼の家が深く関わっているとしか思えない言い方だ。
 窓の外を覗くと、校門辺りを茶髪の生徒が歩いている。扇に違いない。
(やっぱり、州透に言った方が良いのかしら)
 何もする事がないので帰る事にする。
 聯紗が昇降口に行くと、そこにはもう見慣れた黒髪おさげの少女が居た。しかしその表情は躊躇っているような悩んでいるような顔で、きょろきょろとしている。
「未来島さん? どうしたの?」
「あっ、箕知先輩……あの、扇ちゃん見ませんでした?」
 扇。その言葉に少し胸が軋んだけれど、それが表情や声に出る前に、
「ついさっき逢ったばかりよ? 居ないの?」
「靴がないから……んー、もう帰ったのかな?」
「そう……でも、まだ近くに居るわよ。いえ、先に帰る訳がないわ」
「え?」
「帰り道か何処かで、待ってる筈よ」
 そう。あんな話をした後だ、あの人なら先に帰ったりしない。
「……あ、そうでした! 今日扇ちゃん、鍵置いてきたって言ってたから、多分何処かに居ると思います!」
「え? ……あ、そうじゃなくて……」
「はい?」
 全く違う方向に思考を持っていかれたが、まあどうでも良い。……本当は聯紗は、先程扇にした質問と同じことをする気もあった。けれど、馬鹿らしくなった。
 良いじゃない、こんな人達が居たって。
 私だって州透のこと大好きだもの。
「……未来島さんには、良い従兄が居るわね」
 殊子はきょとんと目を丸くして、それから直ぐににこっと笑った。
「はいっ! 自慢のお兄ちゃんです!」
 背中を見送ってから、聯紗はゆっくりと口の端を持ち上げた。
 あの二人はきっと、普通の人間にはない何かがあるのだろう。そんな非現実的なものを信じる訳ではないけれど、あの二人だったら有り得る……そんな感じがする。
 だってあの二人は、普通じゃない絆がありそうだから。
(私も……しっかり向き合わなきゃね)
 そう思うと、聯紗はスニーカーに足を入れた。




「扇ちゃん!」
 校門を少し出た所にある公園のベンチに、扇は座っていた。
「お、殊子。終わったのか?」
「うん、結構早く終わって。でも明日はとことん遅くなるってさ」
「なかなか大変じゃねえか、役員」
「うん、でも面白いよ。本番は大いに盛り上げてやるんだから、期待しててね!」
 殊子はこういう行事になると燃えるタイプらしい。まあ、今迄一度も体験した事なかったから、かも知れないが。
「あ、そう言えば昇降口で箕知先輩に逢ったよ」
 扇は何となくむっとした。しかし殊子は気付いていないようだ。
「そんで、話してきた? 原因、解った?」
「……それなんだけどさ」
「? うん」
「ちょっと俺、あいつに喧嘩売っちゃってさ」
「どんな?」
 妙な沈黙。それでも殊子は何も言わない。彼女の気配りだ。
(これが言えたらそりゃあ楽になるだろうけどさあ)
 残念ながら扇にはそんなはっきり言える心もなく、結局、
「色々あってな。謝るべきか迷ってるんだけど、とにかく今はむかついてしょうがねえ」
で片付ける。
「うん、でも大丈夫だよ。先輩、全然怒ってないみたいだった」
 殊子がふわりと笑った。扇の言いたくなさそうな雰囲気を察したのだろう。そんな彼女の優しさが信じられなくて、何時もそれに触れているのに今回ばかりは怖くなった。だから言ってみた。
「本当に理由、訊かなくて良いのか?」
「話したくない話は、聴いてるほうも辛くなるかも知れないもの」
 彼女にとってそれは例えだったのだろうが、今の立場にぴったりだった。
「でも、一つ訊いて良い?」
「何だ?」
「それはわたしにとって、聴いたら辛い事?」
 そうやって可愛らしく、少し首を傾けて訊く。
「……そうだな。多分」
「そう……」
 哀しみでもない、安心でもない、そんな曖昧な返し方だった。
 それでもはっきりと聴き取れたのが寂しさのようで、扇は大きく息を吸った。
「……あのさ、」
「帰ろっか!」
 やっとの思いで会話内容を言おうとしたのに、殊子のその言葉で扇の緊張の糸が派手に切れた。おまけにそんな言葉を発すると予想しなかったから、何も反応出来ない。
「扇ちゃん? どしたの、固まっちゃって」
「おっ前はタイミング悪すぎるんだこのボケ!」
「え、何!? タイミング!? 何かいけない事言った?」
「言った、言いました! 帰るぞ! あーちくしょー、人が折角……」
 ぶつぶつ言いながらバッグを掴んで背負うと、扇は早足に歩き出す。殊子は何が何だか解らなかったが、「帰ろう」とは自分の言い出した事だったので、取り敢えず扇の背を追い掛けた。
「で? さっき何か言い掛けたよね」
「俺が箕知に、怒った理由」
「……言っちゃって良いの?」
「母親も父親も居る俺には、自分の気持ちなんて解んねえ……って言われた」
 殊子は扇を凝視した後、口を噤んでおさげを弄った。
「それでお前の事思い出して、何か知んねぇけど腹立って椅子蹴り飛ばして。……あっそれとな! 何かすっげえむかつく事言われたんだぜ!?」
「へえ? 何?」
 言われて扇は口を閉じた。
 何、と訊かれても、答える訳にはいかない。
 悪い気がするとかそう言うんじゃなくて、普通すんなり言えるだろうか。
「とにかくムカつく事言われたんだよ」
「あ、逃げた。今回は言って貰うよ、ムカつく理由!」
 扇は自然に肩を跳ね上がらせていた。付き合いが長いせいか、殊子は扇の心情が一目で解るようで、今だって彼が言いたくなさそうだと解っている。けれど時々こうやって言わせようとする。それがどうして、今来るのか。
 良い事があれば悪い事もある。思っても今は殊子を恨みたかった。観念して言おうとしたその時、扇はかなり効果的な言葉を思い付いた。
「……明日の弁当作るから」
 殊子から感じる雰囲気が一気に変わった。腕を組んでむうっと悩んでいる。それから、
「仕方ないなあ。見逃してやるか」
と肩をすくめた。