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「おー、優秀っ! 昼休みが楽しみだねっv」
 次の日、約束通りに作られていた弁当を鞄に入れながら、殊子は上機嫌に言った。傍らで家の玄関に鍵を閉めながら、扇が呟く。
「何が面白くて自分で作った弁当食わなきゃいけねえんだよ……」
「自分で作った分だけ、料理にもその苦労が染み込んでるよ」
「やだよ、殊子の作った方が断然旨い。……って俺は何度も言ってる筈なんだけど」
「うん、言われてる。でも料理作れる男の子って将来的に良いって言われてるよ。だからばんばん作って!」
「母さんの料理好きが伝染っただけだ」
 苦笑いしながら扇は言った。
「ところで、今日の放課後開いてる? 昨日調べなかったから資料室で調べようと思うの、その感染者」
 一階まで降りるエレベーターを待ちながら、殊子が言った。
 夢の管理人達が『影』に支配された人間を称する言葉、それが感染者だ。実際夢の管理人は感染者を『影』から護りその身を救う医者のようなものだから、『感染者』と言う言い方に間違いはないのだ。
「ほら、わたしはその人見てないから解らないじゃない?」
「別に良いよ。でもそろそろ食料の買い出しも行かないといけないけど」
「……そういえば、もうゴミ袋が少なかったなあ。あと冷凍食品も買っといた方が良いよね。ああ、思えば今日は味噌が安いっ!」
(こいつ、主婦か……?)
 毎日熱心にスーパーの広告を見ているとは思っていたが。
「で、結局どっちを優先させるんだ」
 下の階について自動ドアを潜り抜け、待っているのは台風が過ぎ去った後の照り付ける太陽だ。アスファルトの上の水溜まりが陽の光を反射する。
「簡単だよ。わたしが買い物に行けば良いの」
「……は?」
「だから、資料室で一緒に探してもわたし多分解んないと思うし。身体特徴あげられても、似たような人って結構居るから解らないって意味」
「俺一人で……やれって?」
 暫くの間沈黙が流れた。殊子はぽんと扇の背を叩いて、
「宜しくね、扇ちゃんv」
と、天使のような笑みで言った。少し首を傾けた時、おさげが揺れた。




 資料室は都内でもトップを争う位広い。色々の分類が揃っており、その中に記録に残っている卒業生から現在の生徒が載っている本もある。
 興味を惹かれて見る者も多いが、今日は運良く借りられていなかった。扇は何となく安心すると、二年の生徒が載っている本を取って机の上に置いた。
(……つーか、殊子のヤロー逃げたんじゃねえのか、これ?)
 何しろ本の厚さが千ページ以上あるのだ。此処にびっしりと個人写真と氏名、出身校が載っている。
 何でこんな超人気の私立高校に通わなきゃならなかったんだよ、扇は内心で毒突いた。
 人気の高校とは良くあるものだが、私立は合格しさえすれば必ず入れる、と言っても他言ではないとも聴いた事がある。人気高校が私立であれば、それは多くの人物が入学試験を受けるだろうが、それは扇の作業を手間取らせる直接の原因になってしまった。
 自分達の住む世界では『学校』と言うものさえないから、『学校』と言う存在が不思議で溜まらない。だからこそ扇と殊子を学校に通わせたと思うのだが。
 その考えは正解であり、又自ら危険に飛び込むも同然でもある。
 人気が多ければその分感染者も見付けやすい。加えて、心が不安定な年頃の少年少女に『影』は忍び寄りやすい。しかし万一夢の出来事を感染者が覚えていたりしたら、学校中に二人の噂が立ってしまう。まあ、記憶は消しているから感染者が覚えている事はないのだが、失敗も有り得るかも知れないからだ(そのような例は今までにないが)。
(あ〜、面倒臭え……)
 扇は欠伸をしながら拍子を捲った。
 数千人に及ぶ二年女生徒の中から感染者一人を捜すのはそう骨の折れる作業ではない。夢の管理人は、普通の人間には感じられない人が放つ独特の波動を感じ、それを記憶する事が出来る。その人物の外見を覚えていなくとも、その波動と写真の人物の波動を重ね合わせれば良いのだから。
 しかし面倒なものは面倒である。扇の心にあるのは仕事ではなく、友人から借りた映画である。言うまでもなく、ホラー映画。年齢制限付きでかなり期待出来そうなものだ。
 そうやってページを捲っていくうちに、ぴたりと手が止まった。
「――……こいつ?」
 つい声に出してしまった。F組二五番、長い真っ直ぐな茶髪を肩と背に流していて、瞳は少し細めの黒。きつそうな顔だ。
 しかし、難しい名前だ。なんて読むのだろう。
「て言うか、一文字目からしてどう読むんだよ……変わった名前にも程があるぞ」
 再び無意識に呟いた、と、横から小さな声が降りかかった。
「……ミシル、レンシャ」
「え?」
 扇は驚いて声の方を見上げた。そこにはF組二五番の生徒とそっくりな、否、本人が立っていた。写真より表情が柔らかく、さほどきつそうな感じがしない。
「君がその名前をどう読むか解らなかったって、どうして私が解ったのか……なんて、聴かないでね」
「当たり前だ。このページで解らねえのなんて、この名前ぐらいしかない。あんたの名前、な」
「君こそ変わった名前、あ、違う、苗字ね。確か、そう、ランゼだったかしら」
「正解。一学年に何千も居るのに、よく知ってたな」
「人の名前と顔、それと簡単な個人データを覚えるの得意だから」
 そして彼女、箕知みしる聯紗れんしゃは隣の椅子に腰掛けた。
「さて、どうして私の名前なんて調べてたの? 私の事なんだから、教えて貰っても構わない筈よね」
 扇は、好都合なんだか違うんだかと言う境で彷徨った気分になった。言ってしまえば楽だろうが、果たして言って良いのだろうか。こう言うのは殊子の方が得意なのに。
 どうしようか迷っているうちに、それを感じてか、聯紗が口を開いた。
「君は確か……藍是扇君、よね。六月十日生まれ、双子座のB型。二年C組三九番だったっけ?」
「……あんた……」
 扇がやっとの思いで紡いだ言葉を冷笑で受け流すと、聯紗は扇に耳打ちした。
「加えて、一年A組の未来島殊子さんと、マンションで暮らしてる」
 確かに校長も知っているし、隠している訳でもないから知っている者も多い。しかしその話題を持ちかけてくる人々は大抵心に邪なものを抱いていることも知っていた。またつまんねえこと言われるのか、とうんざりしながら扇は次の言葉を待つ。しかし彼女の口からは予想していた言葉とは全く違う言葉が出てきた。
「そんなに恐い顔しないの。何も怪しい事なんて考えてないわよ」
「信用して良いのか?」
「そうやって言う奴は、決まって変な想像をするって言いたいんでしょ。年頃の男女が二人っきりで同棲生活なんてはしたない……ってね」
「同棲じゃねえ、同居だ。あいつは従妹だぜ? 変な気を起こすような性格もしてねえし」
「……でもどうして高校生が二人暮らしなんてしてるの?」
「俺の親が海外で暮らしてるんだ。あっちの親はもう亡くなってるから子供の頃からうちが引き取ってたんだけど……まあ俺達が海外に行っても何をするでもなし、ってことで二人で残る事にしたんだ」
 これも偽造した経歴ではあるが、両親を亡くした殊子を扇の家が引き取っている事は本当だ。そう、と彼女は何かを悟ったように瞬きをして、そしてゆっくり口の端を上げて綺麗に微笑んだ。その割に挑戦的な色も帯びていた。
「もう教える覚悟は出来た? ……君、私のこと調べて何をしようとしてたの?」
 あくまで聴き出そうとしている。扇はどうにか遠回しな言い方を考えた。
「あんた、この頃変な夢とか見てないか? どんな夢、とは言えないけど、とにかく何時もとは違うような変な」
「……夢なんて何時も違うわよ」
「それは当たり前。……じゃなくて、感覚的に変て言うか……ええっと、つまり」
 ああ、なんて表せっつーんだよ。扇は必死に考えながらも言う。
「変だって思ったら、下手にその夢の言いなりになっちゃ駄目だ。『影』に飲まれるぞ」
「…………? 新手の御伽噺?」
(まあ、簡単に信じたらそりゃ良いわな)
 そう思って、扇は立ち上がった。
「信じる信じないは勝手だけどな。とにかくそれを忘れんなよ」
 鞄と本を持つと、本を仕舞ってその場から立ち去る。今はこれだけで良いのだ。現実で詳しく話したら、夢の管理人の真実をばらす事にも繋がる。
 不思議そうな顔をしている聯紗に、振り向いて扇はにっと笑いかけた。
「じゃ、又な・・。えっと……ミシル、さん」




 すっかり遅くなっちゃったな。扇は目の前の夕日に目を細めながら思った。
「あっ、扇ちゃんだ!」
 家への帰り道、後ろから掛かった声に振り向くと、殊子が駆けてきた。二つの買い物袋を一つずつ、両手に持っている。何で買い物に一時間も掛かってるんだろう、と扇は思ったが口にはしなかった。
「どうだった? 感染者は見つかった?」
「見つかったも何も、話したよ。名前は確かー、ミシルって言ったっけ」
「ミ、シ、ル?」
「難しい漢字でさあ。名前なんて、レンシャって言うの」
 殊子は少し難しそうな顔をした。
「ミシル、レンシャさん……」
「変わった名前だよな。俺、多分書けない」
 言っていると、扇はふと買い物袋が気になった。
「それ、片方貸せよ。重い方で良いから」
「そう? えへへ、ごめんね」
「何で謝るんだ?」
「え? ええ……あれ、何でだろう」
 唇に人差し指を当てて必死で考えているから、扇はぷっと吹き出した。
「何で笑ってんだよお」
「いや、高い所に手が届きそうで届かない子供を見てるような気分で」
「訳解んないけど何か馬鹿にしてるでしょ!」
 買い物袋を振り回しそうな勢いだったが、わざわざ買った食料を駄目にする訳にもいかずに踏み止まった。
「そういえば、今日のお弁当美味しかったよ。又作ってね」
 それは可愛らしく殊子は笑う。
 殊子と暮らしている事を友人はよく羨ましがる。それを聴く度扇は何故かと思っていたが、その理由が何となく解った気がした。
 巧く言葉で表す事は出来ないが。
 多分それってこう言う事か、扇はそう思って視線を前に戻した。