5


「……それをずっと隠してたってことか」
 翌日、月曜日。何時ものように屋上へ続く階段で給食をかっくらうと同時に、路樹と留亜は雷筌に康佳のことを全て話した。
「隠してた訳じゃないよ。話しにくかっただけで」
「何で?」
 雷筌は余り怒らない。けれど今日は少し怒っている。口数少なく話を聴いていたが、全て説明が終わるとため息をついてマカロニシチューを口に運んだのだ。つっこみ最強のこの少年がそれで終わるというのは、怒っているということに繋がる。静かに青い灯を燃やす。それが金野雷筌という少年だ。
「だって、こんなの話したって仕方がないじゃん。余計な気遣いは無用だよ」
「あのなあ……五十嵐。お前は何で……ああ、いや……ったく」
 言葉にならないことを何度も何度もつっかえながら、結局雷筌は舌打ちをする。
「何が余計な気遣いだ。確かに俺はまだお前らと知り合って一年も経ってないけどな。こうやってつるんでるからには余計な気遣いとか言われたら哀しむぞ」
「…………」
「だから、今度お前んち行ったら、必ずお前のお母さんに手を合わせるからな」
「……うん」
「それと、一発殴らせろ」
「雷筌ッ!」
 それには黙っていられず、留亜が階段から立ち上がる。路樹は首を横に振って、
「良いよ、留亜。けじめはつけなきゃ。雷筌だって仲間だよ?」
「そりゃそうだけど……殴るって、やりすぎだろ!」
「やりすぎたと留亜が思ったら、今度は留亜がオレを殴れば良い話だ」
 静かに雷筌が言うから、留亜もそれ以上何も言えなくなった。路樹が歯を食いしばってぎゅっと目を瞑る。雷筌が右手を挙げて――けれど、ごつっという鈍い痛みは何時まで経っても降ってこず、代わりに親が子供にするように頭を撫でられた。
「……へ?」
 路樹が薄く目を開いて、なんとも気の抜けた声を出す。やりすぎだと思ったら即行で殴ろうと拳を握りしめていた留亜も、ぽかんと目を見開いて拳の力をなくす。
「本当に殴ると思ったか? まあ、今までで一番怒ったからな」
「ん、なッ!? だ、だって殴るって言ったじゃん! 何だよ、はったり!? はったりなの、ちょっと!!」
「女に手を上げるのは、オレがぶち切れた時だ。今回は大目に見てやる。但し、今度こんなことしたら次は殴るぞ」
「雷筌……」
 珍しく少女らしさを見せた上目遣いの路樹(意外と言葉にしたら失礼だった)。留亜がにやあっと笑って雷筌の肩に手を回した。背中をばしばし叩いて、
「なァんだよ、びっくりしたじゃねえか!」
「やめろ、男同士で抱きつく趣味はねえッ!」
「ギャー酷えこいつッ!」
 路樹は感動なのかどうなのか少しばかり目を潤ませ、そして言う、
「意外と女ったらし?」
 ――ごっ、と鈍い音。
「いたァ――――ッ!?」
「誰が女ったらしだ! 女に優しいと言え! 従姉のねーちゃんが怖くてそれ以来女に手ェ出すのが怖えんだよ!」
「殴らないって言ったじゃん! 殴らないって! しっかも本気で殴ったぁー!」
 今度は痛みで涙目。路樹が雷筌を指さして怒鳴る。
「……逆に尻にしかれてんだな」
 ぽつっと留亜が呟くと、今度は留亜が殴られた。やっと肩に回っていた腕が離れる。
「もうその話は良いとして……ほら」
 階段に座り直すと、雷筌は鞄の中から数学のノートを引っ張り出して留亜の顔面に押し付けた。
「数学?」
 留亜が嫌な顔をしてノートを受け取った。
「違うよ。後ろのページ、紙が挟んである。見つかったらまずいからな」
 もふもふとコッペパンを食べながら指先でノートを指さした。言われたとおりに後ろから捲ると、そこには五枚程度の何かの領収書が挟まれていた。
「何それ、何の領収書? ……うわ、百万とか軽々超してるよコレ」
 横から路樹がそれを見る。留亜は顔を上げて雷筌を見つめた。
「……雷筌、これ、まさか」
「そのまさか。不用心だな、校長室の窓が開いてた。お前らが居なかった土日、オレだけで学校に入ったんだよ」
「ええッ!?」
 ぎょっと路樹が目を見開いた。
「あんたそんな度胸あったの!?」
「お前らと居ればそんな度胸軽々つくっての」
 半ば呆れて雷筌は言った。
「校長室とか職員室が一階の学校も珍しいけどな。それで戸締まりがなってないってのもどうかと思うぞ、うちの学校」
 領収書はどれもこれも高額で、見た目は教育用の色々なものを買ったような領収書だ。が、
「……怪しいよなあ」
「だろ? ま、盗んじまったからには猶予がない。校長もなくなったことには気付いてる筈だからな」
「ってことは、今日の夜?」
 留亜が問うと、しかし雷筌は首を横に振った。
「いや、違う。猶予はないけど、この前見た三千万の書類は残してきた。領収書がなくなっても、その書類さえあれば取引はする。一週間後、って言ってただろ? あれは木曜日だったから、今週の木曜に同じことが起こるってことだ」
「ってことは、木曜日にもう一度行くってこと?」
「ああ。……五十嵐、なんでそんな楽しそうなんだ」
 にやっと笑った路樹は、もう一度留亜の持つ領収書を見つめた。
「だって面白いじゃない。闇取引だよ? どんな取引してるんだか、興味あるじゃん。サングラスに黒服の男、懐には銃! とかだったら、ドラマみたいじゃーん」
「おっ、それ良ーい! んで、背後には色っぽい姉ちゃんが居て、真っ赤な服着てんの!」
「残念ながら、そんなに闇という程の取引じゃないぜ、こりゃ」
 何て奴だ、と雷筌は半ば恐怖するような目つきで二人を見遣ってから言った。此処まで怖いもの知らずの中学生が世の中に居るのか。いや、オレも踏み入ってるのか。
「じゃ、三千万と何を取引してんだよ」
「生徒の個人調査票」
 留亜が眉をひそめる。
「住所、電話番号、家族、職業……最近話題になってるだろ? どこぞの加盟者の個人データが漏れるとか。それみたいなもんだよ」
「ってことは、あたし達のそういうのが全部漏れてるって……」
「その通り。もう既に漏れた後かもな。変な手紙が来たら注意しろ、架空請求だろうから」
「うっわー、流行のアレだね」
「はい」
 留亜がひょいっと挙手して、珍しく顔を引きつらせた。
「もしかして俺達ってば……凄いことしようとしてんの?」
 雷筌はそれを見て、呆れたように肩をすくめた。
「何を今更。オレの方が心配してたのに、今度は乗り気だった方が怖じ気づいたか」
「お、怖じ気づいてる訳じゃねえよ! ちょっと確認したかっただけだ」
「どうあれこんなもの盗んだからには、引き下がれない訳でしょ」
 にいと笑った路樹のその不敵な笑み。
「生徒が教師にお灸を据えんのも、割と面白いんじゃない?」




 ペンライトをコートのポケットに忍ばせて、留亜は廊下にそうっと顔を出した。暗い割には外のライトが煌びやかで、思ったよりも明るい。全ての廊下の明かりが消えて生徒の声が聴こえなくなると、学校とはこうも静かなものなのか、と何だか不思議に思った。
「……オッケ」
 小声で言うと、後ろで路樹と雷筌が頷いた。呼吸の度に、白く煙が巻きあがり消える。
 今日も職員室の鍵は開かれたままで、校長室の鍵も開かれたまま。容易く入り込むと、職員室からマスターキーを拝借して一週間前に滑り込んだあの教室を開けて内側から鍵を掛けた。ドアの窓にもカーテンを掛けて、床に三人で座る。ポラロイドカメラ作戦はカメラが大きいのと手間がかかるのとで諦めた。その代わり三人は新たな武器を用意していた。
『で、これからどうする』
 まず雷筌が携帯電話を開いて、そう打った。
『もちろん、張り込む』
 返したのは路樹だ。
『それしかないじゃん。頃合いになったら飛び込むよ』
『確かにそれしかないと思う』
 それに返事を返したのは留亜だ。と、そこにスリッパの音が二つ、遠くから聴こえてきた。
(約束の時間十分前か……割と常識人じゃない、校長)
 路樹はその音を聴きながらそんなことを思った。
 さて、此処からが修羅場だ。




「では、これですね」
 男は鞄を机の上に置いた。見るからに重そうな、革製の鞄だ。
「……ええ。確かに、受け取りました」
 校長がその鞄に手を伸ばし、中身を確認する。そこには、幾つもの札束が待っていた。それに夢中で、微かな音を立てて教室の鍵が開いたのに気付かなかった。
 彼は鞄を閉じようとジッパーに手を掛けて――
「そっこまで――ッ!」
 威勢の良い声と共に、ばたーん、と派手に扉が開いた。それと共に、ぴんぽーん、とか言う間の抜けた音。
「見ちゃったよ、ごめんねセンセ。あたし達の個人調査票を大金で売り払おうとは、良い覚悟してるじゃない。ほら、見せてごらんよ、ヒャクマンエン」
「な……ッ、何を言って、それにお前、どうしてこんな所に」
「うわあうろたえちゃって。お客様も驚いちゃってるよ。ほら、見せて?」
 にいと笑う黒髪の少女は、腕を組んで校長を見据えた。彼は奥歯を噛み締めていたが、やがて口元を笑みの形に歪めた。
「……百万、だと? いいや、違うな。三千万だ。お前には想像もつかん額だろうがな!」
 言った瞬間、もう一度、ぴんぽーん、と音。
「……な、なんだ今の音は」
「あれ、先生機械にはウトイ?」
 にんまりと彼女は笑い、ばっと片手を振り上げる。
「留亜!」
「イエッサー!」
 後ろの方でカーテンが開く音。ベランダには、携帯電話を持った少年が居た。
「先生達が来る前に、鍵開けときました。路樹に気ィ取られて、ベランダ来たことに気付かなかったっしょ?」
「と言う訳で、今の会話は全部ムービーにしました。ご愁傷様。百万円なんて只のハッタリ、本当は三千万って知ってました。口を割らせるにはこうした方が良いと思いましたので」
 路樹の後ろから、更にもう一人少年が現れる。彼は真面目な顔でこちらにゆっくり歩きながら言った。
「さて、どうしてくれましょうかね。只今受験真っ盛りの我らが先輩は、先生が逮捕されようものなら絶対に高校入試に影響を及ぼす訳でして」
「そ、そんなこと知ったことか!」
「生徒のことはどうでも良いと」
「そうだ! 所詮お前らも教師に逆らってるだろう! 同じだ!」
「……同じ、ですか」
 雷筌は噛み締めるようにゆっくり復唱し、頷く。その時だった。
「あっ!」
 路樹が窓の方を指さす。
「え?」
 男と校長が思わずそちらを見る。次の瞬間。
「「うらぁッッ」」
 ベランダから教室に駆け込んだ留亜と、既に二人の側まで来ていた雷筌の右足が、男と校長の股間に鋭くぶち込まれた。声にならない悲鳴を上げて、急所を押さえて蹲る二人を完全に無視し、雷筌は鞄のジッパーをひいて口を閉じるとひっつかんで駆け出した。
「行くぞ!」
 ばたばたと廊下を三人で駆ける。見ちゃった。見てしまった。取引現場。
 階段を一段とばしで駆け下りて、その途中、路樹と留亜はもう一つとんでもないものを見た。
「ら、雷筌ッ! ちょ、こら! は、早すぎー!!」
 雷筌は一人ひょいひょい二段とばしで駆け下りていく。それだけではない。廊下を走るのが、もの凄く早いのだ。
「そ、そういえばあいつ、元々一年の頃、陸上部、の、短距離走……!」
 留亜が思い出す。美術部に入る前、金野雷筌は陸上部の短距離走における期待のルーキーだったのだ。しかしながら路樹がそれを知らなかったのは、集会の時に必ず寝ていたのとその時は雷筌の存在を知らなかったのと、雷筌自身が面倒臭がってスポーツテストで本気を出さなかったからなのだ。雷筌が本気を出そうものなら、五十メートル走を余裕で五秒台で駆け抜ける。
 一人だけずば抜けたまま三人は正門をよじ登って、高台へと向かう。坂を上った先にあるこの学校の直ぐ近くの、展望広場へ。
「ま、待てお前ら! もう逃がさないぞ!」
 そこへ一台の車がやって来て、中から涙目の校長となんとか冷静さを保ったままの男が出て来た。
「往生際が悪いなあ。もう降参しなよ」
 路樹が銀色の柵に腰掛けてため息をついた。
「そうだぞセンセー。蹴られると痛いじゃん。そんな状況で動くなってば。泣いてるし」
 蹴ったのは自分なのに、留亜はそんなことを言う。
「……え。そんな、痛いの?」
 その普通ではない痛がりようと留亜の言い方に、路樹が眉を寄せる。
「痛いぞ、マジ痛いぞ。いやあ、そういう場面に遭遇するだけで、見るだけでぞっとする」
「それをオレ達はやってやったんだけど」
「そういう雷筌だって、多少金蹴り、後ろめたさあったんじゃねえの?」
「……まあ、それなりに。……じゃなくて、今はそんなことより」
 取り敢えずその話を締めくくると、雷筌は至って普通に、革製の鞄を持ち上げる。
「さて、この追いつめられた状況でオレ達が何をするかと言うと」
「ま……待て! それをこっちに……」
 校長の慌てた声は、止まる。
 冬の北風が強く吹くと同時に、雷筌はジッパーを開けて鞄を逆さまにした。銀色の柵の向こうへ束になった冊がばらばらと落ちていく。
「ほら、受け取んな校長先生」
 手に一つだけ残った札束。百枚を纏める紙を千切り、雷筌はそれを空へ投げる。それは一気にばあっと宙に舞い散った。風がそれを踊らせて、ばさばさと身体を打ちながら高くに舞い上がる。校長は顔に掛かった数枚の札を手に、天を仰ぐ。
「わ、私の金が……!」
「なぁにが私の、よ。このお金はお前のものなんかじゃないの!」
 札の雨は展望台から降り注ぐ。あれを拾う人は居るだろうか。雷筌は下を見下ろしながらそんなことを思った。そしてそんな中で、サイレンの音が聴こえ始めて、数台のパトカーが止まる。
 路樹と留亜、そして雷筌は、顔を見合わせると手をぱんと打ち合わせた。