プリンを平らげ、食器を洗って、テーブルを拭く。後片付けが全て終わる頃には、時計の針は八時半。


「いつもなら、この時間には席についているんですけど」
「でも今日の席は、学校の椅子じゃなくてウチのソファか」


 テレビのニュースも、どこかに出来たショッピングモールの紹介に切り替わる。豆乳を使ったマフィンが美味しい店があるらしい。


「……もうすぐ、この制服とお別れなんですね」


 ふとエステルは、セーラー服のリボンを指先でつまんで言った。有り触れたセーラー服だが、二年半着ていると愛着がわくものだ。


「もうすぐって……まだ十月だぜ。もう半年あるだろ」
「でもきっと、あっという間に過ぎてしまいます。ユーリはどうだったんです? やっぱり、早かったです?」
「……そうだなあ。確かに早かったな。随分と前の話だけど」


 ぼんやりと高校時代を思い出す。これといった強烈な思い出がある訳ではなかったが、あの日々は楽しかった。賭けをして昼食代を浮かせたり、授業を抜け出して屋上で昼寝をしたり……優等生では決してなかったけれど。


「卒業したら……わたし、本当に……お嫁さんになるんですね」


 ソファの上で膝を抱き、エステルは瞳を細めてくすぐったそうに笑った。
 高校を卒業したら結婚すること。それは、数か月前に約束していたことだった。婚約指輪はまだない。エステルが欲しい指輪を決めかねているからだ。


「何だか今でも信じられません。わたしがユーリのお嫁さんになるなんて」
「まー、お嫁さんっつっても何が変わるって訳でもねえだろうけどな。ここにお前が来て、奥さんになるってことくらいだ」
「それが変わるってことなんですけど」
「……そういうもんか?」
「そうですよ」


 でも、とエステルは首を傾げる。
 今はほら……その……恋人同士、だけど、その関係は夫婦になる。ユーリは旦那様になって、わたしはユーリの奥さんになる。今までと立場が違うなら、色々と違ってくるのではないかと思うのに。
 うんうん考えていたエステルの顔を見つめ、ユーリは呆れたように息をつくと、人差し指をたてて言った。


「じゃあオレがお前の旦那さんになった時、オレは何か変えなきゃいけないことがあるか? お前に対して、今みたいにじゃなく接しなくちゃいけないとか、そういうの?」
「え? あ……いえ……多分、ないと思います」
「だったら変わんねえだろ。よく言うだろ、『自分は自分』。そういうことだ」
「っぷわ」


 ひらりと振った人差し指でぴしりと額を突かれて、エステルは目を瞑って軽くのけ反った。だろ?、と笑うユーリを見て、前髪を直していたエステルは、そうかも知れません、と恥ずかしそうに笑って立ち上がった。


「……わたし、着替えてきますね。学校に行かないのに制服で居るのもどうかと思いますし」
「あ、ちょい待ち」


 伸ばした手が細い手首を掴む。その細さに肩がびくりと震えた。思わず手を離すと、エステルは不思議そうにユーリの瞳を見つめた。


「……どうしたんです?」
「や、……ちょっと、びびった」
「?」
「お前の手首って、そんな細かったか」


 意識したことがなかった。細くしなやかな四肢も、滑らかな肌も、触れる度に異なることなんてなかった筈なのに。なのにどうして、こんなに細く折れてしまいそうだと思ったのか、自分でも分からなかった。


「何ですか、そんないきなり」
「……あんまり考えたことなかったな、って」
「わたしの手首が細いんじゃなくて、ユーリの手が大きくなったんだと思いますよ」


 はい、とエステルは左手をこちらに向けた。大きさを比べたいのだと悟って、その手のひらに自分の左手を合わせる。


「何年か前までは、こんなに違わなかった筈なのに……」
「何年前の話だよ」
「わたしが小学生だった時は、身長だってこんなに差がなかった筈です」
「だからそりゃ何年前の……」
「なんかズルとかしてるんです? フレンと一緒に、わたしのご飯に何か入れてたりとか」
「少なくとも、お前がそういう発想するような調味料は入れてない」


 前々から思っていたしもう慣れたが、どうしてこうこの少女は突飛した言動ばかりなのか。


「とりあえずエステル。ちょっと座れ。着替えなくて良いから」
「わたしは良くないです」
「オレだって良くない」
「……はあ」


 困ったように眉を寄せて生返事を返すと、エステルは再びソファに腰を下ろす。と、上から下へ、下から上へとユーリの黒い瞳が動いた。それが何度も繰り返されるものだから、エステルは恥ずかしさに俯いた。


「あの……何してるんです?」
「いや、お前ももうすぐ卒業なんだなって思うと、ちょっとじっくり見とかなきゃ駄目かと思ってな」
「う……な、なんか恥ずかしいですよ」
「見てるだけなんですけど……オレそんなやらしい目つき?」
「いえ、そういう訳ではないのですけど、こう……じろじろ見られていると、わたしもどうしたら良いのか」
「動かずそのまま」


 それがまたむず痒いのに。またユーリは口を閉ざして制服姿の自分を見つめる。
 ……そういえば、制服姿でユーリと居るなんてそんなになかった。制服姿で部屋に来ることはあってもすぐに着替えてしまったし、もしくは彼によって放られてしまったり。


(……あ、そっか)


 これが、わたしの最後の学生の時間。
 この時間が終わったら、わたしは。


「ユーリ」
「え」
「制服、とっておきますから。見たくなったら言ってくださいね?」
「……何そのイメクラみたいな」
「イメっ……!?」
「冗談冗談」


 雨は窓の向こうで降り続ける。一つ雨粒が弾ける度、確実に時間は進んでいく。
 あと何度雨が降ったら、わたしはこの人のお嫁さんになるのでしょう?









 まだ高校生のエステルと、社会人のユーリの話。
 婚約ネタってニヤニヤ出来る要素いっぱいでたまらなく好きです。