「今日はちょっと冷えますね」
「だな。もう夏も終わりかな。……扇風機、今度一つしまうかな」


 傘があるのは良いのだが、問題が一つ。
 エステルは自分よりも身長が低い。しかも身体も細く、肩幅も狭い。小さい傘でも充分事足りるのは分かるが、それは彼女一人の時か、もしくは同性と二人で傘に入る時の話だろう。この傘は自分が入るには少し小さい。それはエステルが隣に来る前から予想はしていた。彼女が傘の下に入った時に、咄嗟に彼女の方に傘を傾けて正解だった。真ん中に差していたら濡れてしまう。
 別に自分は明日は休みだし、体調崩しても構わないのだけど。


「…………ユーリ」
「ん?」


 家が見え始めた頃。エステルがふいに自分の名前を呼んだので、少し見下ろす、と、彼女の手が動いて、傘を摘まんだ。くい、とこちら側に押される。


「やめてください。ユーリ、濡れちゃいます」
「いいって。肩くらい濡れたって構わねえし」
「だったらわたしだって、肩が濡れたって平気です」
「お前はだめ」
「だめじゃないです」
「オレがそういうの、だめなの」
「知りません」
「知りません、ってお前何そのガキの喧嘩……ちょ、お、ま、待て、え!」


 エステルはいきなり自分の右手を取り、強引に鞄を持たせた。そして傘の下から出て、むすっとした顔で、むすっとした声で宣言した。


「わたし、入りません。ユーリが傘使ってください」
「…………家目の前なのにそんな発言か?」
「目の前だから平気なんです。風邪なんてひきませんよ」
「じゃーオレも風邪ひかねえし」
「万が一ってこともあります」
「お前の万が一はないの?」
「……もう、いいから使ってください。わたしがユーリの傘忘れちゃったのがいけないんですから」


 頑固だ。そして、意地っ張り。そういうところも、ああ良いよなあ、とか思うんだけど、たまにこういうことになるからちょっと厄介。
 迷惑だとか。
 無理させるとか。
 そういうのに酷く敏感で、だから気を使って、つかって、遣い過ぎて、困る。


「……じゃあ、オレも差さない」
「え」
「お前が入らないっつーなら、オレも差さない。これでまるく収まる」


 ボーダーの傘をたたむと、ユーリはエステルの手を引いて歩き出す。思いがけない行動に目を丸くしたままエステルは歩く。


「そういうの、やめろよ。……お前はさあ。何か、自分が役に立たなきゃとか。誰かのためになるなら自分が傷付けば良いとか。そういうの……全部が全部悪くはねえと思うけど。でもそういうの、オレにして、どうすんだよ」
「どう……って……わたしはただ、自分が招いたことだから」
「お前が雨やむように願えば、雨はすぐにやんでくれんのか?」
「そんなこと」
「ないだろ。何でオレだけ差してなきゃいけないんだ、格好悪ぃ」
「…………ごめんなさい」
「何でそこで謝んのかも分かんねえし」


 棘がある。……この人はこうやってストレートに表現する。でも、それが優しさであるとエステルは知っていた。冷たい人ではなく、こうやってちゃんと真正面から言ってくれる人。甘やかすのではなく、正しい方向に導いてくれる。
 だから時々、自分に嫌気がさしてしまうのに。
 彼に相応しい存在であろうと思えば思うほど、どうしたら良いのか分からなくなるのに。
 そうして彼に甘える。
 ……ああ、わたしは甘える、それだけのために彼と一緒に居るのではないのに。
 ユーリは鞄から鍵を出して玄関を開けて、またエステルの手を引いて中に入り、後ろ手に鍵を閉めた。まだ手は離さない。もう一方の手に持っていた鞄を、乱暴に床に放り投げると、エステルが怯えたように肩を震わせた。玄関に立ったまま彼女を見下ろす。


「…………ユ」


 ああ、オレ今、冷たい目をしているんだ――彼女の瞳を見て悟る。心が手に取るように分かるのは良いけれど、なぜか時々分からないこともある。それでも分かることの方が多くて、だけどそれは無断で彼女の心を掻き回しているようで、全てが嬉しい訳ではなかった。
 では彼女の心を読み取れない方が良かったかといえば、全くそうではなくて。
 どこまで自分勝手に欲を押しつければ気が済むのか。きっと気が済む訳がないのだ。彼女への欲なんて、満たされたら隙間を無理にでも埋めるようにまた湧いてくる。


「っん、ぅ」


 肩を掴んで壁に押し付けて口付けて支配して、それで欲を満たしたって、自分の中にある渇きが全て癒されたって、それが長時間続く訳でもないのに。
 混乱して息つぎも上手く出来ないのか、すがるように肩に手を置かれた。それを許さないように、手を絡めて壁に押し付ける。細い足が震えてへたりこんでしまっても、離せない自分に嫌気がさして、それでも満たされていく至福感を覚えた。


「自分が悪いって決め付けんの、やめないとそろそろお仕置きなんだけど」
「はいっ!?」
「ちっとはさ、そうだ、なんか無理矢理に理由つけてオレが悪いことにするとか、そういう練習から……、……いや……やっぱ何でもない」


 多分、無理だ。
 だって優しすぎるんだ。


「嬉しくないです」
「?」
「理由をつけて、ユーリを悪者にしたって、楽しくないし、嬉しくない」
「オレも面白くないけど。お前がなんか、ぐるぐるしてるの」


 どうしてだろう。
 傷付けると分かっているのに、こんなにも焦がれて求めて溺れるのに。
 愛しすぎて壊れそうで、壊しそうだ。
 ああ、くそ。
 ユーリは苛立ちながら濡れて重くなった靴を脱いで廊下に足を付ける。靴下にまで水が染み込んでいるから、足を付ける度に変な音を立てた。エステルはそれを見て、いつまでも玄関に居る訳にはいかないと思い、同じように白いパンプスを脱いだ。雨水に濡れて少し黒く汚れたエナメルの白いパンプスは、まるで彼女の心を表すように曇った色。


「はい、力抜いて」
「え? なに、――っ!?」


 右腕を彼女の背に、左腕を膝の裏側に、ぐいと持ち上げるように引き寄せてから抱き上げる。浮き上がる感覚にエステルが声にならない悲鳴を上げて、ぎゅうとユーリの首に腕を回してしがみついた。


「あの、ユーリ!?」
「オレ寒くて風邪ひきそうだから、風呂入るわ」
「……あ、はい。もう出来てると思いますよ」


 家を出る前にセットしていったから。


「それは好都合」
「そうですね、ってなんでわたしまで!」
「お前にまで風邪ひかれたら、オレすっごい生活に支障が……」
「わたしはユーリが入った後に入りますから!」
「……そこまで拒否んの? オレちょっと傷付いた」
「全然傷付いたように見えません! それにまだご飯の準備が」
「はいはい、後で手伝うから」


 腕の中でじたばたしても、全く意味がない。
 そうして二人は、時間を取り戻す。
 雨はやまなくても、この関係は曇らない。


 目の前の扉を開ければ、温かな浴室。









 無理矢理終わらせちゃったごめんなさい。収集つかなくなりました。
 浴室でのあれこれ……もそのうち書きたいです。