グラタンを焼く時間を使ってエステルの部屋に戻る。下町の一角にある小さな家が、二人の住処だった。顔が広いカロル経由で、大工ギルドに頼んで建てて貰った小さな家。大きくなくても立派でなくても、暮らせるだけの大きさで構わない。それが二人の望みだった。
 ハルルで暮らすという考えもあったのだが、なぜだかエステルは「下町で暮らしたい」と言って、考えを覆そうとはしなかった。あの暖かい場所で暮らしたいんです、と熱弁する少女に青年は適う訳もない。
 最初に下町という単語を出したのはユーリだったが、その後やっぱりハルルにしようと考え直した。が、時は既に遅く、エステルはすっかり下町で暮らす気で居て、下町よりはハルルの方が暮らしやすくないか、と言っても、断固拒否された。結局ユーリは下町の一角をハンクスに頼んで譲って貰い、そこに家を建てることにしたのだった。
 エステルの希望で書庫が作られ、寝室は日当たりの良い場所に。小さな庭を設けたのはユーリの希望であったが、彼が欲しかったのではなく、エステルが欲しがりそうだから、と考えたからだった。予想通り、嬉しいです、と少女が胸の前で両手を組んで笑ってくれた時には、嬉しくてつい叫びそうになってしまったものだ。


「エステル。エステル、入るぞ?」


 こつこつと彼女の部屋をノックするが、返事が返ってこない。先程は昼食も忘れていたし、今度はノックの音も耳に入っていないのだろうか。眉を寄せながら扉を開けると、両脇に本が山積みになっている机にエステルが突っ伏していた。


「……エステル?」


 寝てしまったのか、と考えたが、すぐにその考えを取っ払った。違う、と本能がしきりに訴えていた。椅子に座る彼女の足元にペンが転がっていることで、確信した。


「エステル……おい、エステル?」
「……ユーリ……?」


 机の上に乗せていた頭をのろのろと動かし、顔がこちらを向く。か細い声に、細まった瞳。さっきまでは元気そのものだったのに、今は青白い顔。


「ったく……具合悪いなら悪いで言えって、何度も言ってるだろ」
「平気です。少しすれば、治りますから……」
「その『少し』が一分程度なら良いけどな、どうも一分程度で終わりそうに見えねえぞ」


 そうっと額に手をやると、手のひらに熱が伝わってくる。ここ最近夜遅くまで執筆しているようだったから、おおかた風邪でもひいたのだろう。


「はい、強制連行。大人しくする!」
「っきゃ……」


 乱暴にならないようにエステルの片腕を持ち上げて肩に乗せ、抱きかかえる。ベッドに横にさせて掛布をのっけてやると、青白い顔をした彼女は長く息をついた。吐息は熱く、瞳はうっすらと潤んでいるように見えた。


「全く……どうしてそんなになるまで頑張るかね」
「今凄く良いところなんです。だから、一気に書きたいと思って……そう思ってたら、寝るのも勿体なくて」
「自分の体調には気付いてたのか?」
「……ちょっと風邪引いたかも、とは思っていましたけど、書いている時は気にならなかったので……」


 執筆に熱中している間は、自分の風邪のことも忘れていたらしい。だから今になって一気に波がやって来たのだろう。


「エステル。今日と明日は、もうおしまい。寝てること」
「え、でも」
「もしペンを取ろうものなら、今後一ヶ月おやつ抜き」
「ううっ」


 それは、すごく、つらい。


「ちゃんと元気になんねえと、読み聞かせも満足に出来ねえぞ。テッドだって、お前の読み聞かせ毎回楽しみにしてんだ。喉がやられて読めなくなったら悲しむぞ」
「……はい」
「うし。分かったらしっかり休めよ。今グラタン作ってるけど、食えるか?」
「食べます!」
「……風邪っぴきでも食欲旺盛だな……」
「お、大きなお世話ですっ」


 軽口を叩いてやったら、唇を尖らせて言い返された。少しだけ元気が戻ったようだったので、安心して思わず笑う。ユーリは静かにベッドに腰を下ろすと、椅子の近くに転がったままのペンを見つめた。
 彼女の夢を叶える存在とはいえ、それが彼女をこんなことにしたと思うと、ちょっと憎らしい。と言うか、最近はそれのせいで構って貰えていないし。つまらないのでちょっかいを出しても、今真剣に書いてるんですから、とぴしゃりと怒られてしまう。それでも強引にことを進めてみたら、次の日の朝になって頭を叩かれたし。


「エステル」
「何です?」
「オレと童話作家になるのと、どっちが大切?」


 へ?、と、気の抜けた声。それを聞いて、ユーリはようやく自分の言った言葉を自覚した。殆ど無意識に言ってしまっていたらしい。机の方を向いていたのがせめてもの救いだった。多分振り向けば、エステルはベッドの上で呆然と自分の背中を見つめているだろう。そちらを見る勇気はこれっぽっちもない。


「や、悪い。冗談だ。……さて、そろそろグラタンも焼き上がったかな。ちょっくら見てくるわ」


 なるべく平静を装って立ち上がると、恥ずかしさで蹲りそうになる身体を何とか動かし扉に手をかける。


「あの、ユーリ!」


 そこで慌てたようなエステルの声が背後から届いた。やっぱり振り向くのは恥ずかしくて出来なかったから、そこで立ち止まる。


「えと……ユーリを選んでもわたしは童話作家になる夢を追うことが出来ますし、例え童話作家になることを選んでも、きっとユーリはわたしの傍に居てくれると思うんです。だからどっちを選んでもどっちも選べる、と、思います!」


 …………なーんでそこでオレの期待するようなこと言ってくれないのかね、こいつ。
 とは言っても、そこで迷わず自分を選んでくれても、嬉しい反面彼女の夢を妨げる気がして嫌になっていたのだろうけど。


「……ま、それで良しとしますか」
「?」
「こっちの話。グラタン出来たら持ってくるからな」


 扉を開けて、閉める。キッチンに足を向け、一歩踏み出す度に顔が熱を持っていく。自分の言動に呆れてしまって、唸るようにため息をついて額に手をやった。


(どうかしてるぜ、ほんとに)


 本やペンに焼きもちなんて。









 焼きもちをやくユーリってどんなだろう、と思いながら書いたら、なんかアホな話になってしまいました。