床に零れていく黒髪は、床に細かな線を残していく。背中でハサミが動く音がする度に、黒い線がまた一つ増えていった。


「不思議です。どうしてユーリ、枝毛がないんでしょう」
「そういう髪質なんだろ。気にしたことなかったな」


 短くなった一房はどうしようもないので、せめて目立たないようにごまかすことにする。傷んではいないが、毛先も整える。夜の闇でもなく、絵の具の黒でもない、不思議な色をした黒い髪は滑らかで美しい。


「こんなもの……でしょうか。はい、じゃあ前髪も整えますね」


 そうしてエステルは今度は前に回って、前髪に手を滑らせる。


(あ)


 ふと、その手が止まる。
 やっぱり綺麗な顔。女の人みたい――と言うとむすっとした顔をされてしまうから言わないけれど、羨ましいくらいに整った顔。時折その頬に傷が走るが、その度勿体なくて悲しくなってしまう。彼が綺麗な顔をしているから愛しいと思っている訳ではないが、そんな部分も愛しい原因の一つだ。


「……何だよ、切らねえの?」
「あ、いえ……髪、入っちゃうので、目、閉じていてください」


 ん、と返事をして、目を閉じる。黒い睫毛は扇のように艶やか。少しずつ少しずつ、慎重に前髪にハサミをいれる。
 ああ、何だか、凄く緊張します。


「エステル」
「なん、です?」
「手、震えてないか?」
「……そんなこと、ないです」
「ほんとに?」
「ほんとです」


 目を瞑ったまま、ユーリは笑う。額に触れる手が震えているのを悟られてしまった。だって、もし失敗したらと思うと怖い。でも多分、それだけじゃない。
 だって、ユーリのことこんなに近くで見たの、久し振りです。
 しかも目を瞑ってこんな無防備で。
 別に、ユーリみたいに、何かするって訳じゃないですけど、……って、これじゃわたし、何かされたいみたいです。全然違うのに。


「エステル、目ェ開けて良いか?」
「駄目です。髪、入っちゃいますよ」
「お前がどんな顔してんのか、今すっげえ気になってんだよな」
「見なくたって良いです。もう、いいからじっとしてて下さい」


 こんなにどきどきしているの、見られたらまた大笑いされてしまう。


「……はい、終わりです」
「もう良いか?」
「あ、まだです。ちょっと待って下さい……顔についた髪、取りますから」


 タオルはどこだったかとドレッサーの方を向いた気配。見計らってユーリはそっと目を開く。ドレッサーまでタオルを取りに行く彼女の頬は、僅かに赤い。再び目を閉じ、気付かれないようにこっそり笑った。油断していたら彼女が振り向いてしまって、笑っているのを見られてしまった。


「ユーリ……今、笑ってましたよね」
「いや、笑ってない笑ってない」
「嘘つかないでください! 今だって笑ってるじゃないですか!」
「お前が顔赤くしてるもんだから、どうしたのかと思ってな」
「もう……はい、目、瞑って下さい」


 タオルを顔に近付けて彼女は言う。また頬が赤くなっている。このまま従っても良いけれど面白くないので、もう少しからかってやることにした。少し屈んだエステルに両手を伸ばし、腰に手をやって引き寄せる。胸元に頬を当てて深く呼吸すると、頭の上から喉を震わせて息をのむ音。


「あ、の、ユーリ」
「お前心臓大丈夫か? 異常なほど早いけど。おっさんみたいに負担かかってんじゃねえか?」
「いえ、そういう訳では」
「じゃ、何で」
「……何のせいだと思ってるんです」


 ごまかそうとしているのだろう、少女の口調。しかし頬に届く鼓動は反比例するように速いし、声も僅かに震えていた。腰に回した腕に触れる柔らかな身体は、けれど緊張で強張っている。そんなに緊張しなくたって、強引に手を出すつもりなんてないのに。


「エステル」
「……何です?」
「お前って、良い匂いすんだな」
「……いきなり何の話ですか」
「良い匂い、って話だよ。なあ。お前は、お前以外の何にもなれねえんだろうけど。他の何かになるなよ」


 本当に、何の話だかさっぱりだ。エステルは困ったような顔をしながら、行き場のない手を青年の頭にふんわり乗せて、指で黒髪を撫でる。指の隙間を零れ落ちる柔らかい髪は、しゃらりと微かな音を残して流れていった。


「はい。わたしはこれからもずっと、ユーリがくれた『エステル』で居ますよ。約束します。不安でしたら、指切りでもしましょうか?」
「……良いってそんなん。子供じゃあるまいし」
「指切りすることに、大人も子供も関係ないと思います」
「したいのか?」
「そうでもないですけど」
「じゃあ、いい」


 そうしてまた、ぎゅうと腕に力を込める。指切りの代わりのように、両腕を彼女に絡めて。更に鼓動が速くなり身体が強張ったけれど、知らん振り。
 ユーリの頭に鼻先を近付けたエステルの前髪から、桃色の雫が一本落ちて黒い海に溶け込んだ。


「ユーリ。髪、気になったら言ってくださいね。わたし、また切ります」
「……めんどくさくないのか?」
「そんなことありません。わたしが切りたいんです、ね、約束ですよ」
「はいはい」


 消えそうになる桃色の雫を指で掬い、エステルは笑う。
 ゆっくりと髪を撫でられる心地良さに、猫が顎を撫でられるのはこんな感じなのかな、と思いながら、ユーリは目を閉じて深く息をついた。









 ユーリの髪を切るエステルの話。
 ずっとほんわかな夫婦でいてくれればいいです。