愛される資格なんて、ない筈だった。抑も、愛するというのがどんなことか、知らなかった。
エステルのことを守って生きてきた、それは彼女をどこか妹のように思ってきたからだった。兄弟なんて居なかったが、フレンとは兄弟のように育った。それと同じような感覚だった。一生懸命で、真っ直ぐで、困っている人を放っておけない――どこかフレンと似ている彼女から、目を離せなかった。
それが恋に変わるとは思わなかったし、まして愛することに繋がることはなかった筈だった。
だが、どれだけ『ない筈だった』と並べても、事実は揺るがす、また打ち消すことも不可能だった。
お休み、と言って扉を閉め、いつものようにベッドの上で目を閉じる。
そうして夢の中で、また彼女を手にかけた。
……彼女を手にかける夢を見たのは、これが初めてではない。その度に訪れる罪悪感と不快感もまた初めてではなかった。痛む頭を押さえながら胃の中のものを全て吐き出し、それでも胃がきりきりと締め付けられて数分咳き込んだ。浮かんだ汗には涙が混じり、鼻先から落ちる。
――殺す覚悟をしてしまった時点で、もうずっと彼女に触れられない、と思った。
絶対に殺すものかと思っていたなら、罪悪感も少しは軽かっただろうか。
結局その後、殆ど無意識にありったけの酒を引っ張り出し、一気に飲んだ。喉を焼いて身体を巡る酒は、空っぽの胃を掻き乱す。それでも今の苦痛を紛らわすには丁度良い苦痛だった。
苦痛を苦痛で紛らわす。血を血で洗うように愚かな行為だと分かっているのに、それにしか手を伸ばせなかった自分に嫌気がさした。
きっと――フレンだったら、もっと上手くやったんだろうな。
ぼんやりと思ったその可能性は瞬く間に脳を支配して、その考えを打ち消すようにまた新たな瓶に手をかけた。
そうして床に転がっていく瓶が朝の光を反射し始めても、ユーリは新しい一日の訪れに気付かなかった。
こんな感情は、初めてだった。
愛するという感情すら未知のものだったのに、その未知は新たな未知を連れて来て、簡単に心の行き場を奪ってしまった。
額を冷たい感触が滑った。ゆっくり目を開けると、人の手であることに気付いた。
「あ……ユーリ。目は覚めました? 起きられます?」
エステルがにっこり笑い、言う。
「瓶は全部片付けました。……お水、飲みますか? 水分取った方が良いですよ」
「……ああ。貰う」
彼女は一つ頷くと、机に歩み寄って水差しから水をコップに注ぐ。ユーリはベッドの上で上半身を起こし、顔にかかる黒髪を指先で払った。
「……オレ……机で寝てた、よな?」
「はい。でもまた眠っちゃったんです。だから、ベッドに移しました」
「そっか。悪かったな」
「気にしないでください。お安いご用ですよ」
はい、とエステルがコップを差し出す。細い身体で敵を次々となぎ倒していくのだから、そりゃそこらの女より体力も腕力もあるが……こんなに自信満々に言われると、何だか少し悲しい。だってお姫様なのに。
「どうしちゃったんです? こんなにお酒飲むなんて、ユーリらしくないです」
「オレらしくない……か。そっか。そう、かな」
「……何言ってるんですか」
「いや。オレらしいって、どんなだったかなって思って」
エステルはきょとりと目を丸くして、水を含むユーリの横顔を見つめる。それから、口元に手を当ててくすりと笑ってから、答えた。
「ユーリは……真っ直ぐで、優しくて、一生懸命で、ほっとけない病です。自分のこといつも後回しだし、誰かのことばっかりなお馬鹿さんな部分も沢山です」
「……遠慮なしかよ」
「遠慮なんてしませんよ。だって、そんなユーリの傍を離れられないわたしだって、きっと馬鹿なんですから。世界で一番幸せなお馬鹿さんなんですよ」
……全く、おかしなことを言うようになった。
最近の嬢ちゃん、ちょっとお前さんに似てきたよ――以前下町を訪れたレイヴンがそんなことを言っていたが、それはこのことだろうか。
「そうだ、お腹すきませんか? わたしはもう食べてしまったんですけど、軽いものならすぐに作れますから」
「……んー……そうだな」
空になったコップを手の中で転がし、ユーリは暫し考える。とりあえすコップを差し出すと、彼女は笑いながらコップを受け取った。それを足元に置くのを見計らい、肩で揃えられた桃色の髪に手を伸ばして引き寄せる。
「……参ったな。空っぽだ」
空腹のことではない、と、エステルは声色で悟った。酒の匂いが微かに残った吐息。
そうだ、前にもこんなことがあった。あの時自分は彼女を庇って傷を負った。疲れ切っていた筈のエステルは、けれど自分が目を覚ますまでずっと看病してくれていた。あの時と同じだ。
この罪悪感も、この中途半端さも。
触れてはいけないと思うのに触れて、求めてはいけないと知っているのに求めて、愛されてはいけないと分かっていたのに欲してしまった。
愛することは一人で出来るのに、愛されるのは出来ないと、悟ったから。
彼女を飲み干せば、この嫌な気持ちも全て消えるだろうか。
「どうすれば良いと思う?」
けれど飲み干したなら、彼女もまた跡形もなく消えてしまうだろう。
分からない。
彼女に愛されるべき自分は、どんなだろう?
「………………、えと……、あ」
困ったような考えるような声が胸元から聞こえた。そして何か考え付いたような声を出したものだから、ユーリは腕を緩める。そうして彼女は顔を上げ、自信たっぷりに告げた。
「ユーリ。願いが叶う魔法の言葉が、世の中にはあるんですよ!」
「……何だ?」
「何でも解決してくれる魔法の言葉。ちちんぷいぷい、です!」
――……酔ったお陰で、耳がおかしくなっただろうか。
しかしエステルは達成感に満ち溢れた笑みでこちらを見上げてくるから、冗談を言った訳でもなく、且つ聞き間違いでもなかったと悟る。
「……エステル? お前、頭大丈夫か?」
「な、何ですかそれ、失礼ですよ!? こんな童話があるんです。しっかり聞いてくださいね。昔々あるところに」
「ああ、良い、話さなくて良い。頭大丈夫ってことが分かれば良い」
おかしい。ユーリは頭の中で急いで今の状況を整理した。だって今までのシリアスな雰囲気がぶっ壊れた。何でちちんぷいぷい? いや、そんな台詞あるけど。だからって何で今。魔法の言葉、だけど。
「……ま、いいや。それじゃ、ひとつやってみますか」
「はい、どうぞ」
「ちちんぷいぷい…………うわっ、これ言ってみるとすっげー恥ずかしいぞ!? ……えーと、この後に願いを言うんだっけ?」
「そうです。さ、ユーリのお願い事、言ってください!」
まだ彼女に恋をしていなかったあの時。
エステルとフレンがお似合いだと茶化していたあの時。
あの時のことを、彼女を愛するようになった現在で思い出して、フレンにこっそり嫉妬したこととか。
触れてはいけないと思うのに欲する、無駄な無限ループをまた繰り返したこととか。
「飲ませてくれないか」
こんなに良い匂いがするんだ、きっと美味しいに決まってる。
きょとりと目を丸くして、何を言っているのか理解出来ていないエステルを見て、だから、とユーリは笑いながら繰り返す、
「飲んでも良い?」
こんなに欲してしまうのも、頭に残る酒のせいにすれば良い。
フレンに嫉妬するユーリを書く筈がお酒とキャラ崩壊ユーリの話に変身。
書けば書くほどうちのローウェルさんはあほの子になるようです。